八王子市千人町〜台町
御所水通りと信松院
Visited in January 2023
八王子市の中心市街近く、「御所水通り」という名の通りがある。JR中央線西八王子駅近くの国道20号「千人町」交差点から南南東の方角へ延び、富士森公園の南側を回り込むように東へ、2kmほどの長さで延びている。ほぼ八王子市台町の南端部に沿うように延びる通りだ。近くには松姫縁の寺、信松院も建っている。新年を迎えた1月初め、富士森浅間神社への初詣を兼ねて、御所水通りから信松院の辺りを歩いてみたい。
JR中央線西八王子駅を北口へ出て甲州街道(国道20号)を少し東へ進むと「千人町」交差点、この「千人町」交差点から南南東の方角へ延びる通りが「御所水通り」だ。
今回の散策では西八王子駅を南口へ出て、「台町」交差点から御所水通りを南へ辿っていこう。「台町」交差点で御所水通りと「南大通り」が交差している。交差点の名は「台町」だが、この辺りは台町の西端部に近く、「南大通り」の北側は台町4丁目、「南大通り」の南側、御所水通りの東側が台町3丁目だ。「台町」交差点の南側では御所水通りが町の境になっている。
「台町」交差点から御所水通りを南へ辿っていく。左手(東側)には東京都立八王子 拓真高等学校が建っている。やがて道は緩やかな上り坂になって、交差点に差し掛かる。御所水通りに東から富士森公園通りが合流する。北側から見れば御所水通りと富士森公園通りと二股に分かれる形だ。
この交差点の西側にお地蔵様を祀った祠がある。幟が立てられていて、「千人塚地蔵」と書かれているが詳しい由緒などはわからない。新春だからか、祠は美しく飾られ、鏡餅も供えられている。
さらに御所水通りを辿っていこう。交差点で御所水通りはわずかに東側へ曲がり、南東の方角へ真っ直ぐに延びていく。道は緩やかな勾配で上っている。この辺り、八王子の中心市街より少し高い丘陵地になっており、それが「台町」の名の由来でもある。
富士森公園通りとの交差点から300mほど行ったところの小さな交差点の角にも、小さな祠が祀られている。祀られている仏様はそれほど古いものではないように見えるが、これも詳細はわからない。花が供えられ、地域の人々に大切にされている様子がうかがえる。
今回の散策では西八王子駅を南口へ出て、「台町」交差点から御所水通りを南へ辿っていこう。「台町」交差点で御所水通りと「南大通り」が交差している。交差点の名は「台町」だが、この辺りは台町の西端部に近く、「南大通り」の北側は台町4丁目、「南大通り」の南側、御所水通りの東側が台町3丁目だ。「台町」交差点の南側では御所水通りが町の境になっている。
「台町」交差点から御所水通りを南へ辿っていく。左手(東側)には東京都立八王子 拓真高等学校が建っている。やがて道は緩やかな上り坂になって、交差点に差し掛かる。御所水通りに東から富士森公園通りが合流する。北側から見れば御所水通りと富士森公園通りと二股に分かれる形だ。
この交差点の西側にお地蔵様を祀った祠がある。幟が立てられていて、「千人塚地蔵」と書かれているが詳しい由緒などはわからない。新春だからか、祠は美しく飾られ、鏡餅も供えられている。
さらに御所水通りを辿っていこう。交差点で御所水通りはわずかに東側へ曲がり、南東の方角へ真っ直ぐに延びていく。道は緩やかな勾配で上っている。この辺り、八王子の中心市街より少し高い丘陵地になっており、それが「台町」の名の由来でもある。
富士森公園通りとの交差点から300mほど行ったところの小さな交差点の角にも、小さな祠が祀られている。祀られている仏様はそれほど古いものではないように見えるが、これも詳細はわからない。花が供えられ、地域の人々に大切にされている様子がうかがえる。
小さな祠のある交差点から100mほど、「台町」交差点からは750mほどの距離で、富士森公園南西側の角の交差点に達する。球場のあるところの角だ。この交差点から北へ降りてゆく通りは「松姫通り」、700mほど行くと松姫縁の信松院がある。
交差点の北には台町二丁目から散田町二丁目にかけて丘陵地の上に住宅街が広がっている。この交差点の角にもお地蔵様を祀った祠た建っている。その祠の脇から細い道が西側の低地に向かって降りている。その先に御所水弁財天が祀られており、ここが参道入口というわけだ。道の入口脇には「御所水辨財天」と記された木碑が立っている。
参道を辿っていく。鳥居をくぐって200m近く歩いて行った先に御所水弁財天の社が鎮座している。周囲は丘陵地の直中にぽっかりと空いた低地の様相で、いわゆる“谷戸”の地形だと言っていい。
今では周囲の丘陵地はすっかり住宅地と化し、弁財天の境内からもそれらの建物の姿が見えているが、昔を知る人の話によれば、少なくとも1970年代頃まで、この辺りは鬱蒼と木々の茂る谷間で、昼間でも薄暗いほどの場所だったらしい。
弁財天が祀られていることからもわかるが、この谷筋にはかつて湧水があった。周囲の丘陵地が開発され、住宅地となっていくにつれて湧水は細くなっていき、現在ではほぼ枯れてしまっているという。この湧水が、「御所水通り」の名の由来でもある「御所水」である。
「御所水」の名の由来については多くの説があって定かでは無く、「御所」という言葉の持つ意味によってか、さまざまな伝説もあるが、(周囲に比べて)高所である場所に湧水があったことから「高所水」と呼ばれるようになり、それが「御所水」に転じたというのが最も信頼できるものとされているようだ。
かつて武田信玄の息女松姫が八王子に逃れて庵を結んで暮らし始めた頃(1500年代末)、この辺りは「御所水の里」と呼ばれ、滾滾と清水が湧き、湧水を集めた美しい沼が横たわり、長閑な風景の広がる風光明媚なところだったという。松姫はその景色を愛し、度々清水を汲みに訪れたと言われる。その伝説の風景を思い浮かべながら弁財天に参拝するのも一興だろう。
交差点の北には台町二丁目から散田町二丁目にかけて丘陵地の上に住宅街が広がっている。この交差点の角にもお地蔵様を祀った祠た建っている。その祠の脇から細い道が西側の低地に向かって降りている。その先に御所水弁財天が祀られており、ここが参道入口というわけだ。道の入口脇には「御所水辨財天」と記された木碑が立っている。
参道を辿っていく。鳥居をくぐって200m近く歩いて行った先に御所水弁財天の社が鎮座している。周囲は丘陵地の直中にぽっかりと空いた低地の様相で、いわゆる“谷戸”の地形だと言っていい。
今では周囲の丘陵地はすっかり住宅地と化し、弁財天の境内からもそれらの建物の姿が見えているが、昔を知る人の話によれば、少なくとも1970年代頃まで、この辺りは鬱蒼と木々の茂る谷間で、昼間でも薄暗いほどの場所だったらしい。
弁財天が祀られていることからもわかるが、この谷筋にはかつて湧水があった。周囲の丘陵地が開発され、住宅地となっていくにつれて湧水は細くなっていき、現在ではほぼ枯れてしまっているという。この湧水が、「御所水通り」の名の由来でもある「御所水」である。
「御所水」の名の由来については多くの説があって定かでは無く、「御所」という言葉の持つ意味によってか、さまざまな伝説もあるが、(周囲に比べて)高所である場所に湧水があったことから「高所水」と呼ばれるようになり、それが「御所水」に転じたというのが最も信頼できるものとされているようだ。
かつて武田信玄の息女松姫が八王子に逃れて庵を結んで暮らし始めた頃(1500年代末)、この辺りは「御所水の里」と呼ばれ、滾滾と清水が湧き、湧水を集めた美しい沼が横たわり、長閑な風景の広がる風光明媚なところだったという。松姫はその景色を愛し、度々清水を汲みに訪れたと言われる。その伝説の風景を思い浮かべながら弁財天に参拝するのも一興だろう。
御所水弁財天に立ち寄った後は、今回の散策の目的地である富士森公園の浅間神社へ向かおう。浅間神社は富士森公園の南東側の角近くに鎮座している。浅間神社であるから、もちろん木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る富士信仰の神社で、社殿裏手には富士塚もある。慶長年間(1596〜1613年)の頃に八王子を治めていた大久保石見守長安が塚を築いて浅間神社を勧請したのが起源だという。
地元の氏神様として信仰される富士森の浅間神社だが、それほど大勢の初詣客が訪れるわけではない。それでも絶えることなく参拝の人の姿がある。その人たちに交じって、新しい年の平穏と無事を祈願していこう。
地元の氏神様として信仰される富士森の浅間神社だが、それほど大勢の初詣客が訪れるわけではない。それでも絶えることなく参拝の人の姿がある。その人たちに交じって、新しい年の平穏と無事を祈願していこう。
浅間神社への参拝を済ませたら、園内を散策しつつ北へ向かおう。公園の北端部の一角、富士森公園通りに面して子どもたちのための遊具を設置した広場がある。広場の中央に大型の複合遊具があり、この日も子どもたちの遊ぶ姿があった。空気は冷たいが、空は気持ちよく晴れて、外遊びには良い日だろう。
遊ぶ子どもたちの姿を見ながら富士森公園を出て、富士森公園通りから松姫通りへと歩を進める。350mほど松姫通りを辿れば、坂の下となった交差点の南西側の角に信松院が建っている。
遊ぶ子どもたちの姿を見ながら富士森公園を出て、富士森公園通りから松姫通りへと歩を進める。350mほど松姫通りを辿れば、坂の下となった交差点の南西側の角に信松院が建っている。
信松院は「八王子七福神」のひとつである布袋尊を奉安し、新春には「八王子七福神巡り」を楽しむ人たちでたいへんに賑わっている。
信松院は武田信玄の息女松姫が開基の寺である。1582年(天正10年)、甲斐武田家が滅亡した際、松姫は盛信の息女督姫や勝頼の息女貞姫、小山田信茂の息女香貴姫らを伴って関東に落ち延びた。松姫、22歳のときだった。八王子の金照庵に身を寄せた松姫は、やがて心源院を訪ねて出家し、信松尼となって8年を過ごす。その後、松姫は御所水の里(現在の八王子市台町二丁目辺り)に小さな庵を結んで移り住んだ。それが現在の信松院である。
御所水の里に暮らした松姫は尼として武田一族の菩提を弔いつつ、織物の技を里人に伝え、土地の子らに手習いを教える日々を過ごし、人々に慕われていたという。このとき松姫が伝えた織物の技術が、後に八王子織物として発展することになったという。
天下統一を成し遂げた徳川家康は、松姫が八王子で存命であることを知り、当時の八王子の代官頭だった大久保石見守長安に松姫の支援を命じたという。大久保長安も、八王子千人同心の多くも、旧武田家の家臣である。甲斐から遠く離れた八王子の地で新たな暮らしを始めた彼らにとって、かつての主の姫が近くに暮らしていたことは心の支えだったに違いない。1616年(元和2年)、松姫は眠るように亡くなったという。56年の生涯だった。
信松院から南大通りを西へ向かえば1kmほどでJR中央線西八王子駅だ。のんびりと駅へ向かい、そろそろ今回の新春散歩を終わりにしたい。
信松院は武田信玄の息女松姫が開基の寺である。1582年(天正10年)、甲斐武田家が滅亡した際、松姫は盛信の息女督姫や勝頼の息女貞姫、小山田信茂の息女香貴姫らを伴って関東に落ち延びた。松姫、22歳のときだった。八王子の金照庵に身を寄せた松姫は、やがて心源院を訪ねて出家し、信松尼となって8年を過ごす。その後、松姫は御所水の里(現在の八王子市台町二丁目辺り)に小さな庵を結んで移り住んだ。それが現在の信松院である。
御所水の里に暮らした松姫は尼として武田一族の菩提を弔いつつ、織物の技を里人に伝え、土地の子らに手習いを教える日々を過ごし、人々に慕われていたという。このとき松姫が伝えた織物の技術が、後に八王子織物として発展することになったという。
天下統一を成し遂げた徳川家康は、松姫が八王子で存命であることを知り、当時の八王子の代官頭だった大久保石見守長安に松姫の支援を命じたという。大久保長安も、八王子千人同心の多くも、旧武田家の家臣である。甲斐から遠く離れた八王子の地で新たな暮らしを始めた彼らにとって、かつての主の姫が近くに暮らしていたことは心の支えだったに違いない。1616年(元和2年)、松姫は眠るように亡くなったという。56年の生涯だった。
信松院から南大通りを西へ向かえば1kmほどでJR中央線西八王子駅だ。のんびりと駅へ向かい、そろそろ今回の新春散歩を終わりにしたい。
御所水弁財天は、その名も、場所も知っていたが、ゆっくりと訪ねたことはなかったから、よい機会になった。数百年前の御所水の風景を想像しつつ、水を汲みに訪れる信松尼の姿を思い浮かべてみるのも楽しい。古い時代の風景と、晩年の松姫の暮らしに思いを馳せる散策だった。大勢の参拝客で賑わう信松院、近くの人がちらほらと訪れる浅間神社、ほとんど参拝客のない御所水弁財天と、三者三様の風景を見ることができて興味深い新春散歩だった。