横浜市中区
みなと大通り
Visited in May 1999
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
JR根岸線の関内駅を南口に出てそのまま線路に沿って少し歩くとみなと大通りに出る。交差点の角は横浜市役所で、通りの向こうには横浜スタジアムが見えている。このみなと大通りを海岸に向かって歩いて行くと、本町通りとの交差点から海岸通りとの交差点にかけて横浜市開港記念会館、神奈川県庁本庁舎、横浜税関といった歴史的建築物が並び、それぞれに「ジャック」、「キング」、「クイーン」と呼ばれる特徴的な塔の姿を見ることができる。
関内駅に降り立ち、そのままみなと大通りを歩いて行くのもよいが、やはり横浜公園を通り抜けてみたい。横浜スタジアムがあることで有名な横浜公園だが、そもそもは横浜開港期に港崎遊郭のあった場所で、慶応の大火で遊郭が焼失した後、公園として造成されたものだ。北側部分には日本庭園もあるのでひととき散策を楽しむのもよいだろう。
横浜市開港記念会館は1909年(明治42年)の横浜開港50周年を記念して、市民からの寄付を基に建てられたもので、1914年(大正3年)に着工、1917年(大正6年)に完成している。建築設計は懸賞公募によるものであったという。地下一階、地上二階の建物は建築当時は貴賓室やビリヤード場も備え、単に公会堂としてだけではなく、横浜政財界のサロンとしても用いられ、また演奏会が催されるなど文化施設としての役割も担っていたものだった。
建物は関東大震災で一部焼失したが1927年(昭和2年)に再建、内部にはシャンデリアやステンドグラスが開館当時のままに残る。本町通りとの角にある特徴的な塔が「ジャック」の愛称で親しまれているものだが、この塔は関東大震災にも崩壊せずに建っていたのだという。「キング」と「クイーン」が昭和初期の建築であることを考えると、この「ジャック」だけが関東大震災を経験したことになる。
戦後はアメリカ軍によって接収されたが、1958年(昭和33年)には返還、公会堂として復旧し、1960年(昭和35年)に「横浜市開港記念会館」として開館した。1989年(平成元年)には欠け落ちていたドーム部分も復元、同年、国の重要文化財に指定されている。
開港記念会館正面入口の左側、みなと大通りに面して「岡倉天心生誕の地」の碑、「横浜商工会議所発祥の地」の碑、「横浜町会所跡」の碑が並んでいる。
開港記念会館の建つ場所はかつて横浜町会所のあった場所だった。1874年(明治7年)に建てられた町会所の建物は時計台のある洒落たもので、横浜の名所であったという。その町会所で1880年(明治13年)、横浜商法会議所(後の横浜商工会議所)が発足した。外国商人に対抗するために横浜商人の結束と自立をはかることを目的としたもので、生糸貿易商で初代会頭である原善三郎や小野光景らの尽力によるものだった。
その横浜町会所が建つ以前、1859年(安政6年)から1871年(明治4年)にかけて、この場所には越前藩の出資による生糸貿易の商館「石川屋」があった。福井藩士岡倉勘右衛門がその商館の支配人として横浜での貿易を担っていたが、岡倉天心はその次男として生まれた。「天心」は彼が20代になってから用いるようになった「号」であり、本名は岡倉角蔵(後に自ら覚三とする)といった。
岡倉天心は明治期の美術思想家として著名だが、幼少期を横浜に過ごし、アメリカ人宣教師に英語を学び、高島嘉右衛門が開設した高島学校に通ったという。1871年(明治4年)に藩命によって「石川屋」が閉鎖された後、一家は東京に移り、その後、天心は東京開成学校(現東京大学)に学んだ。1878年(明治11年)、東京開成学校の教師として来日したアメリカの東洋美術史家フェノロサと出会い、その出会いが天心の生涯を決定づけることとなった。この時天心は15歳だった。
東京開成学校在学中からフェノロサの研究を手伝った天心はその後も古美術の調査や保護に努め、1889年(明治22年)には自らその設立に尽力した東京美術学校の初代校長に就任した。1898年(明治31年)に美術学校を辞任した後には横山大観らとともに日本美術院を設立、近代日本画の礎を築いた。1900年代に入って40代となった天心は「The ideals of the East(東洋の理想)」、「The Awakening of Japan(日本の覚醒)」、「The Book of Tea(茶の本)」といった英文著作をロンドンやニューヨークで出版、1905年(明治38年)にはボストン美術館東洋部顧問にも就任し、東洋美学の紹介に努めた。1913年(大正2年)、新潟県赤倉の山荘で岡倉天心は病のために没した。50年の生涯だった。
その横浜町会所が建つ以前、1859年(安政6年)から1871年(明治4年)にかけて、この場所には越前藩の出資による生糸貿易の商館「石川屋」があった。福井藩士岡倉勘右衛門がその商館の支配人として横浜での貿易を担っていたが、岡倉天心はその次男として生まれた。「天心」は彼が20代になってから用いるようになった「号」であり、本名は岡倉角蔵(後に自ら覚三とする)といった。
岡倉天心は明治期の美術思想家として著名だが、幼少期を横浜に過ごし、アメリカ人宣教師に英語を学び、高島嘉右衛門が開設した高島学校に通ったという。1871年(明治4年)に藩命によって「石川屋」が閉鎖された後、一家は東京に移り、その後、天心は東京開成学校(現東京大学)に学んだ。1878年(明治11年)、東京開成学校の教師として来日したアメリカの東洋美術史家フェノロサと出会い、その出会いが天心の生涯を決定づけることとなった。この時天心は15歳だった。
東京開成学校在学中からフェノロサの研究を手伝った天心はその後も古美術の調査や保護に努め、1889年(明治22年)には自らその設立に尽力した東京美術学校の初代校長に就任した。1898年(明治31年)に美術学校を辞任した後には横山大観らとともに日本美術院を設立、近代日本画の礎を築いた。1900年代に入って40代となった天心は「The ideals of the East(東洋の理想)」、「The Awakening of Japan(日本の覚醒)」、「The Book of Tea(茶の本)」といった英文著作をロンドンやニューヨークで出版、1905年(明治38年)にはボストン美術館東洋部顧問にも就任し、東洋美学の紹介に努めた。1913年(大正2年)、新潟県赤倉の山荘で岡倉天心は病のために没した。50年の生涯だった。
みなと大通りと本町通りとの交差点、横浜市開港記念会館の斜向かいに神奈川県庁本庁舎の堂々とした姿が見える。この場所は横浜開港時、神奈川運上所が置かれていた場所だった。運上所は現在の税関に相当するものだが、野毛山に置かれた神奈川奉行所の出先機関として全般的な行政機関としての役割を担っていたものだった。
その神奈川運上所は1866年(慶応2年)の豚屋火事によって焼失、翌1877年(慶応3年)に神奈川運上所が再建されると同時に本町通りを挟んだ現横浜地方裁判所の建つ場所に石造り二階建ての「横浜裁判所」が建てられた。これが神奈川県庁の初代の庁舎だ。明治維新を経て新政府のもとで運上所と横浜裁判所は行政機関としての役割を担うが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴って横浜裁判所は神奈川県庁と改称された。一方、神奈川運上所も横浜運上所からさらに「横浜税関」と改称され大蔵省の管轄となり、これを機に石造りの建物に建て替えられた。
1882年(明治15年)に失火により初代神奈川県庁舎が焼失すると、埠頭側に移転の決まった税関の建物を買い取り、庁舎とした。これが二代目の神奈川県庁舎だ。この庁舎は明治末期まで使用されたが、老朽化のために改築を余儀なくされた。1913年(大正2年)、ルネッサンス様式の壮麗な三代目庁舎が完成したが、この庁舎もやがて関東大震災によって焼失することになった。
現在の神奈川県本庁舎は1928年(昭和3年)に完成したものだ。公募案を基に設計されたというその建物は殊更に日本風であることを意識したもので、特に五重塔をイメージしたと言われる塔は「キング」の愛称で呼ばれるようになる。その帝冠様式の堂々とした意匠は後の官公庁の建物に大きな影響を与え、そのイメージは昭和初期の日本の軍国主義的イメージとも重なるものだが、今となっては神奈川県庁の建物の意匠にそうした時代のイメージを重ねる者も多くはないだろう。
みなと大通りから本町通りへ、さらに日本大通りから海岸通りへと庁舎の周囲を廻って、その威風堂々とした建物をさまざまな角度から見てみるとよいだろう。日本大通りと本町通りとの交差点の角には敷地内に神奈川運上所跡の碑も建っており、これも合わせて見ておきたい。
その神奈川運上所は1866年(慶応2年)の豚屋火事によって焼失、翌1877年(慶応3年)に神奈川運上所が再建されると同時に本町通りを挟んだ現横浜地方裁判所の建つ場所に石造り二階建ての「横浜裁判所」が建てられた。これが神奈川県庁の初代の庁舎だ。明治維新を経て新政府のもとで運上所と横浜裁判所は行政機関としての役割を担うが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴って横浜裁判所は神奈川県庁と改称された。一方、神奈川運上所も横浜運上所からさらに「横浜税関」と改称され大蔵省の管轄となり、これを機に石造りの建物に建て替えられた。
1882年(明治15年)に失火により初代神奈川県庁舎が焼失すると、埠頭側に移転の決まった税関の建物を買い取り、庁舎とした。これが二代目の神奈川県庁舎だ。この庁舎は明治末期まで使用されたが、老朽化のために改築を余儀なくされた。1913年(大正2年)、ルネッサンス様式の壮麗な三代目庁舎が完成したが、この庁舎もやがて関東大震災によって焼失することになった。
みなと大通りから本町通りへ、さらに日本大通りから海岸通りへと庁舎の周囲を廻って、その威風堂々とした建物をさまざまな角度から見てみるとよいだろう。日本大通りと本町通りとの交差点の角には敷地内に神奈川運上所跡の碑も建っており、これも合わせて見ておきたい。
みなと大通りと海岸通りとの交差点の角には横浜税関が建っている。イスラム風の意匠が特徴的な塔が「クイーン」の愛称で呼ばれているものだ。現在の庁舎は1934年(昭和9年)に完成したもので、横浜税関の庁舎としては三代目にあたる。
横浜税関は横浜開港の際に設置された神奈川運上所から始まったものだが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴って「横浜運上所」と改称されて大蔵省の管轄となり、さらに翌1872年(明治5年)11月28日には「運上所」の名称が「税関」に統一されて「横浜税関」が誕生した。税関ではこの11月28日を「税関記念日」とするのだそうだ。
1873年(明治6年)には初代の税関庁舎が完成したが、やがてより海岸に近い立地への移転が決まり、1885年(明治18年)に二代目の庁舎が現在の場所に建ち、初代の税関庁舎は神奈川県に譲渡されて神奈川県庁の初代庁舎として使用された。その二代目庁舎も関東大震災で崩壊、その後に現在の庁舎が建てられたものだ。
庁舎はもちろん内部の一般見学などはできないが、交差点の角側の一角にそれほど規模の大きなものではないが一般に解放された資料室があり、税関に関する各種の資料を見ることができる。資料室入口にはかつての神奈川運上所の門構えが復元されていて、また税関の歴史などのパネル展示などもあって、その変遷に触れることができる。また有名なブランド品とそのコピー商品、いわゆる偽ブランド品が並べて展示してあるのも、いかにも税関の資料室らしくて面白い。資料室の見学は無料だが、残念ながら平日のみの解放で、日曜祝日などは利用できない。その他、横浜税関の歴史や、税関業務などの一般的な概要、資料室の案内など、大蔵省横浜税関のサイトに詳しい。ちなみにクイーンの塔の印象的な税関庁舎の建物は海に向けられた側が正面なのだそうだ。
横浜税関は横浜開港の際に設置された神奈川運上所から始まったものだが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴って「横浜運上所」と改称されて大蔵省の管轄となり、さらに翌1872年(明治5年)11月28日には「運上所」の名称が「税関」に統一されて「横浜税関」が誕生した。税関ではこの11月28日を「税関記念日」とするのだそうだ。
1873年(明治6年)には初代の税関庁舎が完成したが、やがてより海岸に近い立地への移転が決まり、1885年(明治18年)に二代目の庁舎が現在の場所に建ち、初代の税関庁舎は神奈川県に譲渡されて神奈川県庁の初代庁舎として使用された。その二代目庁舎も関東大震災で崩壊、その後に現在の庁舎が建てられたものだ。
横浜のランドマークと言えば、その名も「ランドマークタワー」が有名になってしまった感があるが、かつては「キング」、「ジャック」、「クイーン」の三塔の姿は港に入ってくる船上からもよく見え、その姿を見ると「横浜に来たな」と思ったものなのだそうだ。その愛称はトランプのカードの名称や、あるいはチェスの駒の名称に由来するとか言われているが、重厚で威厳に満ちた「キング」、華麗で溌剌とした雰囲気の「ジャック」、優美で柔らかな「クイーン」と、まさにぴったりの愛称という気がするし、それらの建物を愛し、保存してきた横浜の人たちの思いもわかる気がする。それらの建物にカメラのレンズを向けていると、撮影の邪魔にならないようにと優しげな笑みを浮かべて迂回してくれる人の姿が少なからずあったことを、書き添えておきたい。
【追記】
2001年1月の省庁再編成により大蔵省は財務省に移行している。本文中の「大蔵省」は「大蔵省(現財務省)」と解釈されたい。また横浜税関資料室は現在、資料展示室「クイーンのひろば」として横浜税関本館一階に設けられている。