八王子市子安町〜下柚木
野猿街道
(八王子駅〜下柚木)
Visited in October 2003
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
八王子市の中心部と多摩市とを結んで野猿(やえん)街道という道路が延びている。八王子市側の起点は甲州街道で、線路を南へ越えて八王子駅南口を経て東へ辿る。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて由木へ至り、さらに東進して多摩市一ノ宮へ至っている。現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であったらしい。かねてから野猿街道に沿って歩いてみたいと思っていたのだが、ようやく機会を設けて秋晴れの日を選んで野猿街道を辿ってみた。
八王子駅を南口へと出ると、すぐ目の前を道路が横切っている。それほど広い道路ではないのだが、駅へ行き来する人がひっきりなしに横切る中を、駅への送り迎えの車や客待ちのタクシーなどが行き交って混雑している。この道路が野猿街道だ。駅階段を降りたところの目の前に「野猿街道」と記した標識が立っている。野猿街道の八王子側の起点は駅前ではなく、さらに西へ延びて線路を渡って甲州街道まで至っている。八王子駅の北口側はビルが林立する繁華街だが、南口側はあまり高いビルもなく、どこか地方の主要駅といった佇まいを見せている。
【追記】
八王子駅南口は2007年11月下旬から2010年12月初めにかけて再開発工事が行われた。駅前にはペデストリアンデッキが設けられ、その横には高層のビル「サザンスカイタワー八王子」が建ち、整然として現代的な風景に一変している。
野猿街道を東へ進もう。車道歩道の区別もない道路が、道脇に各種の店舗を並べて駅前から斜めに延びてゆく。店舗の並ぶ中を歩くとすぐに大きな道路との交差点に至る。「南大通り(みなみおおどおり)」との交差点で、野猿街道が斜めに交差するために少々変則的な形をしているが、野猿街道は延長方向にまっすぐに延びているのがわかる。信号が変わるのを待って「南大通り」を渡り、野猿街道を進む。すぐに山田川を越える。道は相変わらず狭く、車で通り抜けるときには対向車とのすれ違いにも気を遣う。道脇には新しいビルなども建っているが、その中に古びた店舗なども残っている。昔からの街道筋を思わせる佇まいがいい。
やがて「子安町五差路」へ至る。地元で「子安の五差路」と通称する交差点で、西へは「子安公園通り」が延びて国道16号へと結び、北へは「かえで通り」が延びて線路をくぐって明神町方面とを繋いでいる。南へは子安町の住宅街へと入り込むが、そこから八王子第六小学校の裏手へと回り込むと六本杉公園が近い。六本杉公園は湧水による池を抱えた公園で、「八王子八十八景」のひとつにも選ばれている。
やがて「子安町五差路」へ至る。地元で「子安の五差路」と通称する交差点で、西へは「子安公園通り」が延びて国道16号へと結び、北へは「かえで通り」が延びて線路をくぐって明神町方面とを繋いでいる。南へは子安町の住宅街へと入り込むが、そこから八王子第六小学校の裏手へと回り込むと六本杉公園が近い。六本杉公園は湧水による池を抱えた公園で、「八王子八十八景」のひとつにも選ばれている。
「子安の五差路」から野猿街道はさらに延長方向へとまっすぐに南東方向へと延びる。五差路を過ぎるとすでに子安町から北野町へと入っている。少しばかり進むと「六万坊」という名の小さな十字路がある。「六万坊」はそのまま「ろくまんぼう」と読む。近くにはバス停もあり、バス停の名も「六万坊」であるから、バスを利用する地元の人にとっては馴染み深い地名であるだろう。「六万坊」とは聞き慣れない言葉だが、どうやらたくさんの寺がある場所といったような意味の仏教用語らしく、福島県保原町にも「六万坊」という地名があるようだ。ここがなぜ「六万坊」という地名になったのか、さまざまな資料を紐解いてみてもその由来をしっかりと説明した記述に行き当たらない。ちょっと興味を覚えたりする。
「六万坊」で野猿街道と交差する道路は住宅街の中の細道で、そこから北へ入り込むと、またすぐに小さな十字路がある。野猿街道から逸れて延びる細道との交差点で、十字路の脇にお地蔵さんがある。この道はかつて小野路へ通じていた古道であるらしい。道は車一台が通れるほどの幅しかなく、あまり通り抜ける車もない。この道をそのまま歩いてみた。
道は緩やかに下り坂になって、やがて視界が開けて眼前には線路が横たわっている。八王子駅から大きな孤を描いて南へ向かう横浜線の線路と、京王八王子駅から南へ下がって北野駅へと向かう京王線の線路がちょうど寄り添うように並ぶ地点で、このふたつの線路を踏切で越える。現在の野猿街道はその南側で跨線橋となって線路を越えており、その橋の袂から踏切脇に降りてくる小径があった。小径脇に踏切を見守るようにお地蔵様が佇んでおられた。手前のJR側の踏切に「小野路街道踏切」との名がある。
「六万坊」で野猿街道と交差する道路は住宅街の中の細道で、そこから北へ入り込むと、またすぐに小さな十字路がある。野猿街道から逸れて延びる細道との交差点で、十字路の脇にお地蔵さんがある。この道はかつて小野路へ通じていた古道であるらしい。道は車一台が通れるほどの幅しかなく、あまり通り抜ける車もない。この道をそのまま歩いてみた。
道は緩やかに下り坂になって、やがて視界が開けて眼前には線路が横たわっている。八王子駅から大きな孤を描いて南へ向かう横浜線の線路と、京王八王子駅から南へ下がって北野駅へと向かう京王線の線路がちょうど寄り添うように並ぶ地点で、このふたつの線路を踏切で越える。現在の野猿街道はその南側で跨線橋となって線路を越えており、その橋の袂から踏切脇に降りてくる小径があった。小径脇に踏切を見守るようにお地蔵様が佇んでおられた。手前のJR側の踏切に「小野路街道踏切」との名がある。
踏切を渡り、住宅街の中を抜けてゆくと、やがて八王子バイパスに出る。国道16号の混雑を緩和するために造られたバイパスで、相模原市の橋本から有料の自動車専用道路として北上してきたものが、北野で一般道に降りてくる。そのまま八王子市街の東側を北上して中央自動車道八王子インターの北側で国道16号本線に戻る。大型車の通行も多く、終日混雑している。横浜線と京王線の線路を越えた野猿街道は、この八王子バイパスに合流し、南へ下って湯殿川を渡り、「打越」交差点で北野街道へと繋がる。
八王子バイパスの歩道を「北野町」交差点から「北野町南」交差点あたりまで歩くと、道路向かいの左前方にこんもりとした木立が見えてくる。北野天満社の木立だ。歩道橋を渡って北野天満社に立ち寄ってみた。北野天満社は横山党の一族が京都の北野天満宮を勧請して建立したものともいうが、詳細な創建の年代はよくわからないらしい。いずれにしてもこの北野天満社が、地名の「北野」の由来になったという。北野天満社の境内にはケヤキやイチョウの大木が葉を茂らせているが、周辺の車の騒音が届いてあまり静謐な雰囲気は望めない。隅に小さな池があり、鯉の泳ぐ姿もあったが、これもあまりきれいな印象ではなかった。
八王子バイパスの歩道を「北野町」交差点から「北野町南」交差点あたりまで歩くと、道路向かいの左前方にこんもりとした木立が見えてくる。北野天満社の木立だ。歩道橋を渡って北野天満社に立ち寄ってみた。北野天満社は横山党の一族が京都の北野天満宮を勧請して建立したものともいうが、詳細な創建の年代はよくわからないらしい。いずれにしてもこの北野天満社が、地名の「北野」の由来になったという。北野天満社の境内にはケヤキやイチョウの大木が葉を茂らせているが、周辺の車の騒音が届いてあまり静謐な雰囲気は望めない。隅に小さな池があり、鯉の泳ぐ姿もあったが、これもあまりきれいな印象ではなかった。
北野天満社から南へ住宅街の中を抜けると京王線の北野駅だ。駅前には整然としたロータリーがあり、スーパーをはじめとしてファーストフード店などのさまざまな店舗が並んで賑やかだ。
ロータリーの一角に田植え作業をする人を象った像がある。これは「北野土地区画整理事業完成記念」の碑だという。このあたりは湯殿川河畔に広がる肥沃な農耕地帯だったのだが、時代が下ると少しずつ市街化の様相を呈し、無秩序に家々が建ち並ぶ有様となってしまった。それを解消し、土地の有効活用をはかるために土地区画整理事業が行われたといった旨の解説が添えられている。区画整理の範囲は現在の北野町を中心に打越町、長沼町、さらに子安町から明神町にまで及び、1970年(昭和45年)から15年の歳月と約70億円の費用を要したという。現在の北野町は中央を八王子バイパスが抜け、その周囲には住宅や企業などが建ち並ぶ市街地だが、かつては湯殿川と浅川に挟まれた広大な水田地帯であったのだろう。田植えの手を休めて遠くを見つめる人の像の姿に、その頃の北野町の風景が思い浮かぶようでもある。
駅を通り抜けて南側へ出ると湯殿川の河畔だ。河岸は階段状に造られて水際まで降りてゆけるようになっており、陽気の良い日などには腰を下ろしてくつろぐ人の姿を見ることがある。湯殿川は決してきれいな川というわけではないが、特に水が濁っている印象もなく異臭なども感じない。水の中には鯉の泳ぐ姿があり、鴨の姿もあった。すぐ右手では八王子バイパスが川を越えている。
ロータリーの一角に田植え作業をする人を象った像がある。これは「北野土地区画整理事業完成記念」の碑だという。このあたりは湯殿川河畔に広がる肥沃な農耕地帯だったのだが、時代が下ると少しずつ市街化の様相を呈し、無秩序に家々が建ち並ぶ有様となってしまった。それを解消し、土地の有効活用をはかるために土地区画整理事業が行われたといった旨の解説が添えられている。区画整理の範囲は現在の北野町を中心に打越町、長沼町、さらに子安町から明神町にまで及び、1970年(昭和45年)から15年の歳月と約70億円の費用を要したという。現在の北野町は中央を八王子バイパスが抜け、その周囲には住宅や企業などが建ち並ぶ市街地だが、かつては湯殿川と浅川に挟まれた広大な水田地帯であったのだろう。田植えの手を休めて遠くを見つめる人の像の姿に、その頃の北野町の風景が思い浮かぶようでもある。
駅を通り抜けて南側へ出ると湯殿川の河畔だ。河岸は階段状に造られて水際まで降りてゆけるようになっており、陽気の良い日などには腰を下ろしてくつろぐ人の姿を見ることがある。湯殿川は決してきれいな川というわけではないが、特に水が濁っている印象もなく異臭なども感じない。水の中には鯉の泳ぐ姿があり、鴨の姿もあった。すぐ右手では八王子バイパスが川を越えている。
湯殿川の少し下流部分に「下田橋」という名の人道橋がある。これを渡る。橋の上から湯殿川の下流側を見るとおびただしい数の鯉が群れていた。川を渡るとすぐに片側二車線の広い道路に出る。「打越」交差点で東に折れてきた野猿街道だ。都道160号線との併記がある。野猿街道はここから緩やかに南に曲がって丘を登り、絹ヶ丘の住宅街を抜けて野猿峠へ向かってゆく。
「打越」交差点から絹ヶ丘へ至る、この広い道路は近年になって造られたもので、「打越新道」の名で呼ばれているようだ。以前は「打越」交差点から打越町の谷戸に沿って狭い道が登っていた。狭い道とは言ってももちろん二車線を設けてあるのだが、大型車同士のすれ違いの際にはどちらかが広いところで待っていなくてはならないような状況だった。今でもこちらを通るバス路線は存在するが、他の車両が新しい野猿街道を抜けるようになったために交通量はめっきり減った。
以前の野猿街道であるそのバス路線の道路と「打越新道」の間を、打越町の谷戸の中を小さな川に沿うように丘へ上る細道がある。野猿街道を横断し、コンビニエンスストアの横からその細道に入り込んでゆく。この道路はさらに昔の道だったのかもしれない。住宅が建ち並ぶ中を小川に沿って道は緩やかに坂を登ってゆく。やがて左手には木々が茂ってくる。道脇には木の根方が露わになって昔の山道であった頃を彷彿とさせる場所もある。
左手の木々の茂る丘の一角は「打越大畑北緑地」となっているが、林の横に小径が辿っているだけで特に公園らしく整備されているわけではない。この緑地の小径を端まで上がると、眼下には尾根を切り通して造られた「打越新道」が抜けるのが見え、その向こうに長沼町方面からさらに浅川の向こうに日野市方面を一望して爽快な眺めが味わえる。ただこちら側からはそこへ入り込む場所がわかりにくいのが難点だ。
「打越」交差点から絹ヶ丘へ至る、この広い道路は近年になって造られたもので、「打越新道」の名で呼ばれているようだ。以前は「打越」交差点から打越町の谷戸に沿って狭い道が登っていた。狭い道とは言ってももちろん二車線を設けてあるのだが、大型車同士のすれ違いの際にはどちらかが広いところで待っていなくてはならないような状況だった。今でもこちらを通るバス路線は存在するが、他の車両が新しい野猿街道を抜けるようになったために交通量はめっきり減った。
以前の野猿街道であるそのバス路線の道路と「打越新道」の間を、打越町の谷戸の中を小さな川に沿うように丘へ上る細道がある。野猿街道を横断し、コンビニエンスストアの横からその細道に入り込んでゆく。この道路はさらに昔の道だったのかもしれない。住宅が建ち並ぶ中を小川に沿って道は緩やかに坂を登ってゆく。やがて左手には木々が茂ってくる。道脇には木の根方が露わになって昔の山道であった頃を彷彿とさせる場所もある。
左手の木々の茂る丘の一角は「打越大畑北緑地」となっているが、林の横に小径が辿っているだけで特に公園らしく整備されているわけではない。この緑地の小径を端まで上がると、眼下には尾根を切り通して造られた「打越新道」が抜けるのが見え、その向こうに長沼町方面からさらに浅川の向こうに日野市方面を一望して爽快な眺めが味わえる。ただこちら側からはそこへ入り込む場所がわかりにくいのが難点だ。
緑地を左に見ながらさらに進むと、やがて以前の野猿街道であったバス道路へと出る。眼前はすでに絹ヶ丘の住宅街で、ふりかえると北野方面の景色が下方に見える。すっかり丘の上に出たという気分になる。
「多摩丘陵」というと、南多摩地域から横浜市北部にかけて連なる丘陵地帯を総称するものというのが一般的な認識だろうと思うが、その名も「多摩丘陵」という交差点とバス停が存在するのをご存じだろうか。それがここにある。交差点の信号機に設置された標識にも、バス停にも、しっかりと「多摩丘陵」と記されている。バス停の名として先にあり、交差点の名がそれに従ったものだろうか。それにしても特定の地点を指して「多摩丘陵」という名を用いるのが少々違和感もあり、それだけに面白みも感じる。確かに「多摩丘陵」の一部ではあると思うが、どのような経緯でこのバス停が「多摩丘陵」という名となったのだろう。興味を覚える。
バス道路を登るとすぐに「打越新道」に合流する。すぐに「絹ヶ丘二丁目」交差点だ。北野街道から長沼駅近くで南に逸れた道路が野猿街道と交差する。この道路は西へ絹ヶ丘と北野台の北側を抜け、片倉町で国道16号と交差し、さらにみなみ野大橋で兵衛川と横浜線の線路を跨いでみなみ野の北部を抜け、大船町まで至っている。最近では交通量も多くなってきたような気がする。野猿街道は片側二車線のまま、絹ヶ丘の住宅街を緩やかに登ってゆく。この辺りではケヤキ並木になっており、大きく育った樹影が美しい。
「多摩丘陵」というと、南多摩地域から横浜市北部にかけて連なる丘陵地帯を総称するものというのが一般的な認識だろうと思うが、その名も「多摩丘陵」という交差点とバス停が存在するのをご存じだろうか。それがここにある。交差点の信号機に設置された標識にも、バス停にも、しっかりと「多摩丘陵」と記されている。バス停の名として先にあり、交差点の名がそれに従ったものだろうか。それにしても特定の地点を指して「多摩丘陵」という名を用いるのが少々違和感もあり、それだけに面白みも感じる。確かに「多摩丘陵」の一部ではあると思うが、どのような経緯でこのバス停が「多摩丘陵」という名となったのだろう。興味を覚える。
バス道路を登るとすぐに「打越新道」に合流する。すぐに「絹ヶ丘二丁目」交差点だ。北野街道から長沼駅近くで南に逸れた道路が野猿街道と交差する。この道路は西へ絹ヶ丘と北野台の北側を抜け、片倉町で国道16号と交差し、さらにみなみ野大橋で兵衛川と横浜線の線路を跨いでみなみ野の北部を抜け、大船町まで至っている。最近では交通量も多くなってきたような気がする。野猿街道は片側二車線のまま、絹ヶ丘の住宅街を緩やかに登ってゆく。この辺りではケヤキ並木になっており、大きく育った樹影が美しい。
野猿街道を辿り、「絹ヶ丘」バス停を過ぎて「光照寺北」交差点から左手へ、絹ヶ丘一丁目の住宅街の中へ入り込むと、長沼公園が近い。長沼公園へと向かう途中、住宅街の一角に石碑のようなものを見つけた。「越野打越北野境界基準 雷松跡記念碑」とある。打越町会と北野町会によって建てられたもののようだ。昭和41年11月と、日付が記されている。特に解説などはないようだが、その名称から考えれば、かつてこの近くに「雷松」と呼ばれる松があり、それが越野と打越、そして北野との境界の目印となっていたということなのではないだろうか。どのような松だったのだろう。きっと遠くからでも見ることのできるような大木だったのに違いない。予期せずこのようなものを見つけると、何だか拾い物をしたような気分がして楽しい。
長沼公園は雑木林の丘陵の北斜面をそのまま残したような都立公園で、敷地内のほぼすべては雑木林の斜面に散策路が辿るばかりの、野趣溢れる公園だ。京王線の長沼駅から近いこともあって、手軽なハイキングコースとして訪れる人も多い。長沼公園は面積も広く、京王線長沼駅方面から入り込む「長沼口」をはじめとしてさまざまな場所からのアクセスが可能だ。絹ヶ丘の住宅街を抜けたところは公園の西端部分で、「絹ヶ丘口」と呼ばれるところだ。この辺りは草原の斜面に桜や楓が植えられ、ベンチなども置かれて、長沼公園の中では一般的な公園としての佇まいを持っている場所だ。丘の上のベンチで、風に吹かれながらのランチタイムというのもいい。
長沼公園は雑木林の丘陵の北斜面をそのまま残したような都立公園で、敷地内のほぼすべては雑木林の斜面に散策路が辿るばかりの、野趣溢れる公園だ。京王線の長沼駅から近いこともあって、手軽なハイキングコースとして訪れる人も多い。長沼公園は面積も広く、京王線長沼駅方面から入り込む「長沼口」をはじめとしてさまざまな場所からのアクセスが可能だ。絹ヶ丘の住宅街を抜けたところは公園の西端部分で、「絹ヶ丘口」と呼ばれるところだ。この辺りは草原の斜面に桜や楓が植えられ、ベンチなども置かれて、長沼公園の中では一般的な公園としての佇まいを持っている場所だ。丘の上のベンチで、風に吹かれながらのランチタイムというのもいい。
野猿街道に戻り、南へ上がればすぐに野猿峠だ。両脇には木々の茂る丘が迫り、その尾根を切り通しで越える峠の様相がよくわかる。峠の頂点部分に「野猿峠」の名のバス停があり、そこからわずかに由木側へ下がったところに「野猿峠」の名の交差点がある。交差点からは南へ道が分かれ、中山地区へ抜けている。その道路を辿って中山地区へと足を進めるのも楽しいと思えるが、今回は野猿街道を辿るのが目的であるので、それはまた次の機会にしたい。
現在の野猿峠は片側二車線の広い道路が抜けており、交通量も多いが、かつてはかなり険しい山道であったらしい。由木から八王子へ向かう際、荷物が多い時には峠を越えるのがあまりに大変であるため、峠越えを避けて大栗川を下って現在の多摩市一ノ宮へ至り、そこから八王子へ向かっていたという話もどこかで読んだ記憶がある。
「野猿峠」という名は比較的新しいもののようで、戦後になって「野猿峠ハイキングコース」が整備されたのに伴って使われるようになったもののようだ。だから「野猿街道」という名も近年のものだろう。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であったらしい。古くには「甲山峠」であったものが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものという。特に動物の猿とは関係がないようだ。かつてこのあたりに猿が多く、通りかかる人々に悪さをした、などというエピソードがあるのであれば楽しいと思うのだが、どうやらそうではないらしい。
現在の野猿峠は片側二車線の広い道路が抜けており、交通量も多いが、かつてはかなり険しい山道であったらしい。由木から八王子へ向かう際、荷物が多い時には峠を越えるのがあまりに大変であるため、峠越えを避けて大栗川を下って現在の多摩市一ノ宮へ至り、そこから八王子へ向かっていたという話もどこかで読んだ記憶がある。
「野猿峠」という名は比較的新しいもののようで、戦後になって「野猿峠ハイキングコース」が整備されたのに伴って使われるようになったもののようだ。だから「野猿街道」という名も近年のものだろう。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であったらしい。古くには「甲山峠」であったものが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものという。特に動物の猿とは関係がないようだ。かつてこのあたりに猿が多く、通りかかる人々に悪さをした、などというエピソードがあるのであれば楽しいと思うのだが、どうやらそうではないらしい。
野猿峠から野猿街道を由木方面へと辿る。両脇には雑木林の丘が横たわり、かつては谷戸部の奥まった場所であったのだろうと思わせる。野猿街道は緩やかな下り坂でほぼまっすぐに続く。ケヤキ並木が続いているが周辺は少々殺風景だ。やがて「南陽台入口」交差点に至る。ここから北へ登ると丘陵の南斜面を造成した南陽台の住宅街だ。右手、野猿街道の南側は以前は雑木林が広がる丘陵だったのだが、近年になって「由木めぐみ野」として造成されている。まだ一部には工事中の場所もあるようだが、真新しい住宅も建ち始め、新しい街が造られてゆく様子を目の当たりにする。
その「由木めぐみ野」の住宅街の中に、せせらぎに沿った遊歩道が造られていた。野猿街道の歩道を歩くのも味気ないから、そちらの遊歩道に歩を進めてみた。草に覆われたせせらぎの横を辿ると、やがて「由木めぐみ野公園」に至る。「由木めぐみ野公園」は遊具を配した広場と、その向こうに池を抱えた一角から成っている。池は公園として整備される以前からこの場所にあったものだろう。今では公園内に「ビオトープ池」として残されているが、水辺まで足を運ぶとさまざまな水辺の植物を見ることができる。池には鴨の姿があり、トンボが舞っている。公園の背後はまだ造成中で大型の工事車両が出入りしており、公園内に人の姿も無かったが、やがて周辺が住宅街へと姿を変えれば、この公園でくつろぐ人の姿も増えるだろう。
その「由木めぐみ野」の住宅街の中に、せせらぎに沿った遊歩道が造られていた。野猿街道の歩道を歩くのも味気ないから、そちらの遊歩道に歩を進めてみた。草に覆われたせせらぎの横を辿ると、やがて「由木めぐみ野公園」に至る。「由木めぐみ野公園」は遊具を配した広場と、その向こうに池を抱えた一角から成っている。池は公園として整備される以前からこの場所にあったものだろう。今では公園内に「ビオトープ池」として残されているが、水辺まで足を運ぶとさまざまな水辺の植物を見ることができる。池には鴨の姿があり、トンボが舞っている。公園の背後はまだ造成中で大型の工事車両が出入りしており、公園内に人の姿も無かったが、やがて周辺が住宅街へと姿を変えれば、この公園でくつろぐ人の姿も増えるだろう。
「由木めぐみ野公園」を後にして野猿街道をさらに東へ辿ると、やがて「殿ヶ谷戸西」交差点だ。「殿ヶ谷戸西」とあるところを見ると、この交差点の東方の地域が「殿ヶ谷戸」と呼ばれる谷戸であったのだろう。信号機のある交差点だが、野猿街道に交差する道路は狭い道で、両脇の丘の上に辿っている。野猿街道の北側に水田なども残る風景が広がっており、興味を覚えてそちらに歩を進めた。
水田脇を抜け、小径は昔ながらの里山の風景の中を辿ってゆく。そのまま丘の上へと続き、おそらく南陽台の東側を抜けて堀之内方面へと繋がるのではないかと思うのだが、そちらを歩いてみるのはまた次の機会に譲ろう。野猿街道の北側の細い道を時々折れながら東へ進む。途中で由木中央小学校から下校中の子どもたちとすれ違う。周辺には畑地も残り、畑の隅でコスモスが咲いている。昔からの農家らしい佇まいの家々も残り、のどかな風景が広がっている。
やがて永林寺の門前へと出た。境内に設置された解説板によれば、永林寺は大石定久の居館のあった場所で、定久が滝山城主として滝山城に移る際に、1532年(天文元年)、永鱗寺として創建したものという。その後、八王子城主北条氏照の助成によって七堂伽藍が建立されて大寺院になったという。やがて時代が下って北条氏が滅び、徳川家康が関東に入府し、家康が永鱗寺の林を誉めたことから「永林寺」に改称したものであるらしい。朱塗りの総門や堂々とした三門など、なかなか見事なものだ。裏手の墓所からさらに奧に入り込んだところに「由木城跡」として広場がある。広場は鬱蒼とした林を背負った高台にあり、10月だというのにまだ蝉の声が聞こえていた。永林寺は「八王子八十八景」の「歴史・文化の景」のひとつにも選ばれている。
水田脇を抜け、小径は昔ながらの里山の風景の中を辿ってゆく。そのまま丘の上へと続き、おそらく南陽台の東側を抜けて堀之内方面へと繋がるのではないかと思うのだが、そちらを歩いてみるのはまた次の機会に譲ろう。野猿街道の北側の細い道を時々折れながら東へ進む。途中で由木中央小学校から下校中の子どもたちとすれ違う。周辺には畑地も残り、畑の隅でコスモスが咲いている。昔からの農家らしい佇まいの家々も残り、のどかな風景が広がっている。
やがて永林寺の門前へと出た。境内に設置された解説板によれば、永林寺は大石定久の居館のあった場所で、定久が滝山城主として滝山城に移る際に、1532年(天文元年)、永鱗寺として創建したものという。その後、八王子城主北条氏照の助成によって七堂伽藍が建立されて大寺院になったという。やがて時代が下って北条氏が滅び、徳川家康が関東に入府し、家康が永鱗寺の林を誉めたことから「永林寺」に改称したものであるらしい。朱塗りの総門や堂々とした三門など、なかなか見事なものだ。裏手の墓所からさらに奧に入り込んだところに「由木城跡」として広場がある。広場は鬱蒼とした林を背負った高台にあり、10月だというのにまだ蝉の声が聞こえていた。永林寺は「八王子八十八景」の「歴史・文化の景」のひとつにも選ばれている。
永林寺を出て野猿街道に戻ると、すでに「下柚木」交差点が近い。多摩市一ノ宮から延びてきた野猿街道がこの交差点で野猿峠方面へと分かれ、西へは柚木街道が延びて国道16号の「鑓水」交差点へと繋ぐ。野猿街道はこの交差点までが都道160号で、ここから多摩市へ向かっては都道20号となるようだ。交差点付近は店舗なども多く、交通量も多い。すぐ南側を大栗川が沿って流れ、その河岸が緑道として整備されているから、そこを歩いてみるのも楽しい。
野猿街道を「下柚木」交差点から少し東へ行くと「下柚木駐在所前」交差点がある。この交差点から南へ「さんもり橋」で大栗川を渡ってさらに進むと、由木中学校を回り込んで富士見台公園がある。富士見台公園は芝生の広場が魅力的な開放感溢れる公園で、休日には家族連れなどで賑わっている。桜の名所としても知られ、お花見の季節にはさらに賑わう。ちょっと一休みに立ち寄ってみるのも悪くない。
今回の野猿街道散策はこのあたりで終わりにしたい。柚木街道沿いのバス停には聖蹟桜ヶ丘行きのバス路線もあるし、八王子駅と南大沢駅とを結ぶ路線もあるから、帰路も辿りやすい。近くのバス停でバスを待つことにしよう。
野猿街道を「下柚木」交差点から少し東へ行くと「下柚木駐在所前」交差点がある。この交差点から南へ「さんもり橋」で大栗川を渡ってさらに進むと、由木中学校を回り込んで富士見台公園がある。富士見台公園は芝生の広場が魅力的な開放感溢れる公園で、休日には家族連れなどで賑わっている。桜の名所としても知られ、お花見の季節にはさらに賑わう。ちょっと一休みに立ち寄ってみるのも悪くない。
今回の野猿街道散策はこのあたりで終わりにしたい。柚木街道沿いのバス停には聖蹟桜ヶ丘行きのバス路線もあるし、八王子駅と南大沢駅とを結ぶ路線もあるから、帰路も辿りやすい。近くのバス停でバスを待つことにしよう。
現在の野猿街道は多くの車が行き交う幹線道路だが、周辺の公園や寺社などを巡りながら辿ると案外楽しい。八王子の町からかつての由木村へ、険しい峠を越えて行き交った人々に思いを馳せながら辿ってみるのも一興だ。常にバス路線に沿っているから、疲れたら近くのバス停でバスを待てばいい。