横浜線沿線散歩街角散歩
横浜市港北区太尾町
大倉山から鶴見川へ
Visited in September 2005
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
大倉山から鶴見川へ
すっかり秋らしくなった九月の末、横浜市港北区太尾町を歩いた。横浜線から菊名で東急東横線に乗り換え、大倉山駅で降り、大倉山公園を経て北西方向へと歩き、鶴見川の河岸を目指そうと思ったのだった。
大倉山駅を降りると、すぐ西側に北方の丘へ上る坂道がある。坂道を上ってゆくと、丘の上に大倉山公園がある。梅林が有名な公園だが、駅側のエントランス部分に当たる一角には花水木の並木がある。花水木は赤い実を付けているがまだ紅葉には早い。春の花期にはきっと美しい景観になることだろう。その季節にまたゆっくりと時間を取って訪れてみたい。

大倉山記念館
花水木の並木を抜けてさらに進むと「横浜市大倉山記念館」が建っている。明治期から昭和初期にかけての実業家大倉邦彦が1932年(昭和7年)に大倉精神文化研究所の本館として建てたものという。ギリシャの神殿を思わせる堂々とした建物だ。大倉精神文化研究所は現在も館内の一角で活動を継続しているが、他の部分は一般に開放され、自由に見学することができる。

実はこの丘と、そして周辺の地名の通称が「大倉山」であるのは、大倉邦彦がこれを建てたことに由来するらしい。「大倉山」という呼称が定着し、公園名も東急の駅名も当初は「太尾公園」、「太尾駅」だったものが、1934年(昭和9年)に現在のように改称されたものという。

大倉山公園梅林
大倉山記念館の横を抜けて丘をひとつ越える形で尾根の向こう側へ降りると、有名な梅林だ。東急電鉄が乗降客誘致のために1931年(昭和6年)に公開したものという。現在の梅林は開園当初より規模は小さくなっているようだが、それでも「梅の名所」と呼ばれるに値するもので、早春には多くの観梅客を集めて賑わっている。初秋の梅林はあまり訪れる人もなく、ひっそりと落ち着いた佇まいだ。

梅林の西に、細道を挟んで龍松院という曹洞宗の寺がある。大倉山公園の梅林となっているところは、元々はこの龍松院の地所であったらしい。龍松院は小机の雲松院の末寺だそうだ。すでに九月の末だが、龍松院横の道脇には彼岸花が咲いている。そこから地下茎が延びたのか、梅林の中にも美しい彼岸花の咲く姿があった。
彼岸花
太尾見晴らしの丘公園
龍松院の門前を抜けて北西方向へと歩を進める。周辺は住宅地だが、住宅の間に畑地もあり、かつてこの辺りがのどかな農村であった頃の面影を残している。しばらく歩くと頭上を横切る送電線と聳え立つ鉄塔の姿が家並みの向こうに見え始める。

その向こうの丘の上に、「太尾見晴らしの丘公園」がある。「太尾見晴らしの丘公園」は丘の上に広場を整備し、各種の遊具類を設置した公園で、2004年(平成16年)4月に開園している。その名が示すように、公園の端からは東は大曽根方面、北西側は間近に鶴見川河岸への眺望が楽しめる。爽快な開放感が楽しめる公園だが、少々駅から距離があり、徒歩圏内に暮らす人たちのための公園だと言っていいかもしれない。

大曽根陶板広場
公園の西側に斜面林の間に設けられた階段を降り、住宅の間を抜けて道路を渡るとすぐに鶴見川の河岸に出る。河岸の堤防にちょっとした広場が設けられている。「大曽根陶板広場」という名であるようだ。その名の通り、陶板を埋め込んだモニュメントがいくつも置かれている。横長に置かれたものはベンチを兼ねているのだろう。そのひとつには「鶴見川に想いを寄せて」の文字がある。傍らに設置された案内板によれば、これらの陶板は市民団体と大曽根小学校、太尾小学校の児童、保護者たちによって共同で制作設置されたものという。

「陶板広場」の傍らには「バクの案内板」が設置されている。「バクの案内板」は鶴見川河岸の随所に設けられ、鶴見川とその流域の情報が記され、散策を楽しむ人たちのガイドの役割を担っている。鶴見川流域を俯瞰すると動物のバクを連想する形であることから「バクの案内板」と名付けられたものだ。「バクの案内板」によれば、この地点は源流から32.3km、河口から10.2kmであるそうだ。

鶴見川の堤防道
鶴見川の河岸を上流方向に歩く。河岸の堤防道は開放感があり、歩くのは楽しい。堤防道の道脇にも彼岸花が咲いている。堤防脇の住宅の庭では栗が実っている。そのようなものを見ながら歩く。やがて「河口から11.0km」を示す距離標があり、それを過ぎると新羽橋だ。産業道路が鶴見川を渡っている。ひっきりなしに車が通行し、途切れることがない。

さて、ここからどうしようかと少し迷う。新羽橋を渡って西へ進めば横浜市営地下鉄「新羽駅」が近い。そこから帰路を辿ってもいいのだが、やはり今回は大倉山駅へと戻ることにしよう。

新羽橋から産業道路を東へ進む。「太尾堤」交差点が近づいた辺りで、太尾堤緑道が接している。太尾堤緑道は太尾新道の西に沿うように東西に延びる緑道で、この辺りがその北端にあたっている。道路は歩道が無く、車両の通行はたいへんに多いためにとても歩きにくい。「太尾堤」交差点近くでは危険ですらある。注意を払いながら歩き、「太尾堤」交差点を渡り、大倉山駅方面へと向かう。

大倉山エルム通り
進むうちに商店街の趣が濃くなり、少しずつ賑やかになってゆく。この通りには大倉山駅方面から「エルム通り」、「オリーブ通り」、「つつみ通り」と、それぞれ名が付けられているようだ。

「オリーブ通り」を歩いていると何やら子どもたちの歓声が聞こえてくる。どうやら通り沿いの幼稚園で運動会が行われているようだった。大倉山公園の丘を左手に見ながら駅方面へと進む。

やがて「大倉山エルム通り」、大倉山のシンボルとなっている「大倉山記念館」がギリシャ風の建築であることから、アテネの「エルム通り」と姉妹提携を結び、通り沿いの建物をギリシャ風建築にまとめたものという。

そのまま進めばすぐに大倉山駅だ。町内では神社の祭礼を控えているようだ。太尾神社の祭礼だろうか。商店街には「御祭禮」と記した提灯が提げられていた。
初秋の大倉山公園から太尾見晴らしの丘公園に立ち寄り、鶴見川河岸へと足を延ばそうというのが、今回の散策の予定ルートだった。大倉山公園や「大倉山エルム通り」はいずれまた別の機会にゆっくり時間を取って訪れてみることにしよう。すでに九月の末だったが、彼岸花の咲く風景を楽しめたのは良かった。
【追記】
東急線大倉山駅周辺はかつては「太尾町」の一部だったが、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて住居表示の変更が行われ、「大倉山(一丁目〜七丁目)」の町名が誕生した。大倉山公園はほぼ「大倉山二丁目」に位置し、「大倉山エルム通り」は「大倉山二丁目」と「大倉山三丁目」の境となっているようだ。以前は「大倉山」は公園や駅の名として存在するのみで、地名としてはあくまで通称だったのだが、この住居表示変更によって名実ともに「大倉山」となった。
大倉山から鶴見川へ