春日山城の築城については詳しくわかっていないという。南北朝時代(1336〜1392年頃)にはすでに存在していたようで、一説には越後国の守護であった上杉氏が直江津にあった越後府中の守りを強固なものにするために詰城を築いたのが始まりだろうという。
やがて越後は守護代であった長尾氏の権力が増大、1507年(永正4年)、守護である上杉房能から謀反の疑いをかけられた長尾為景が房能の居館を襲撃、房能を追放し、上杉定実を守護に擁立する。定実の守護はもちろん傀儡であり、長尾為景が越後の実権を掌握しようとしたわけである。この頃から、春日山城は長尾為景によって本格的な山城として整備されていったのだろうという。
しかし房能の実兄である関東管領の上杉顕定が長尾為景に報復、1509年(永正4年)に大群を率いて越後に攻め込む。劣勢に追い込まれた為景はいったんは佐渡に逃れるものの、態勢を立て直し、翌1510年(永正5年)に反撃に転じる。上杉軍は敗退、顕定は敗死する。1513年(永正10年)には傀儡であることに不満を抱いた上杉定実が反乱を起こすものの失敗、守護の権威は完全に失墜、春日山城主として越後の実権を掌握した長尾為景は勢力を拡大してゆく。