新潟県上越市の南部、高田の町は高田城の城下町として栄えた土地柄だ。高田城跡は新潟県指定史跡、現在は公園として整備され、市民の憩いの場としても観光名所としても親しまれている。夏の暑さの残る九月上旬、高田城跡を訪ねた。
高田城跡
高田城跡
新潟県上越市南部、鉄道の「高田駅」の東に広がる市街地は、かつて高田市の中心市街だった。高田市は1971年(昭和46年)に直江津市と合併、上越市が発足した。現在の住所表示に「高田」は存在しないが、今でもこの地域を「高田」と呼ぶ場面は多いのではないか(本頁では、以降、この地域を「高田」、あるいは「高田の町」と表記している)。

高田は高田城の城下町として栄えた土地柄である。高田城跡は高田駅の東方に位置し、新潟県の史跡に指定されている。史跡のほぼ全てが高田公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれつつ、高田の観光名所のひとつとしての役割を担っている。
追記 「高田公園」は2020年(令和2年)4月1日に「高田城址公園」に名称変更されている。その旨、読み替えられたい。
高田城跡
高田城跡
高田城跡
高田城跡
高田城は江戸時代初期に松平忠輝によって築かれた城だ。松平忠輝は1592年(文禄元年)に徳川家康の六男として生まれている。家康の意向により伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)と結婚し、福嶋城(現在の新潟県上越市港町付近にあった)の城主となるが、間もなく幕府の命により高田菩提ヶ原に高田城を築いている。築城の指揮を執ったのは伊達政宗である。ところが高田城築城からわずか二年後、家康は忠輝の領地を没収、伊勢の朝熊(現在の三重県)に配流を命じる。理由については諸説あるが、忠輝がキリスト教の布教やヨーロッパとの通商貿易に積極的であったからだとも言われる。

1624年(寛永元年)、松平光長が高田藩を立藩、若年だった光長に代わって家老の小栗美作らが藩政を動かした。小栗は殖産興業や新田開発などに努めたが、1665年(寛文5年)の暮れの大雪と翌年の大地震によって城も城下も壊滅的な被害となった。地震による本丸の倒壊により家老二名も犠牲になり、復興は藩政を一人で担った小栗によって行われた。小栗は幕府から巨額の借り入れを行い、城と城下を復興、城下の町人町に整備された「雁木」は、このときに設けられたものという。

しかし、高田藩は光長の跡継ぎを巡って御家騒動に揺れる。いわゆる「越後騒動」である。争いは収拾を見ることなく、幕府の介入を仰ぐことになる。結果、光長の高田藩は改易処分となり、高田藩は一旦幕府領となる。1685年(貞享2年)に稲葉正往が高田藩を立藩、城下を整備したが1701年(元禄16年)に下総佐倉藩に移封されている。以後、戸田氏、久松松平氏の時代を経て、1741年(寛保元年)、榊原氏の治めるところとなり、榊原氏六代の統治を経て明治維新を迎えている。

高田の地は三度の大地震と度重なる大火に見舞われ、1870年(明治3年)には御殿が焼失、城を偲ばせる建造物は今は残っていない。1908年(明治41年)には陸軍第十三師団司令部が城址に設置され、城郭の様子もずいぶん変わってしまったようだ。高田城跡は夜桜の美しさが名高いが、この桜は1909年(明治42年)に陸軍第十三師団を記念して在郷軍人会によって植えられたものという。
高田城跡
高田公園は高田城跡を公園としたものだが、園内には陸上競技場や野球場、歴史博物館なども設けられており、総合公園としての佇まいを見せる。その中にも往時の堀や土塁が残され、極楽橋や三重櫓なども復元され、城址公園としての魅力を併せ持っている。高田城跡の風情を楽しむなら極楽橋を渡って本丸跡に進み、三重櫓を見学、堀を渡って西二の丸広場へと辿り、散策を楽しみつつ、歴史博物館などに立ち寄ってみるのがお勧めのコースだろう。
高田城跡/内堀越しに見る三重櫓
高田城は石垣の無い城である。内堀越しに見る三重櫓も石垣ではなく土を盛った塁の上に建っている。石垣が造られなかったことの理由はいろいろ考えられているが、石垣に用いる石材が近くで産出されなかったことが大きいだろうという。石垣が無いことによって高田城跡は他の城跡とは少し違った印象に見える。その景観も見所のひとつと言えるかもしれない。
高田城跡/極楽橋
極楽橋は松平忠輝が高田城を築城した際、二の丸から本丸へ通じる木橋として架けられたものという。陸軍第十三師団が入城した際に土塁が切り開かれて堀が埋められたために姿を消したが、2002年(平成14年)、高田公園開園50周年と市制30周年を記念して復元されている。構造の根本部分は安全性の担保のために近代的な工法が用いられているが、人目に触れる部分は可能な限り旧形状が再現されているという。
高田城跡/本丸跡
高田城は天下普請に相応しく、当時としてはかなり規模の大きな城だったという。内堀と土塁に囲まれた本丸には天守閣は造られず、南西側の塁上にシンボル的意味合いの三重矢倉が建てられ、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヶ所、御茶屋台1ヶ所などが設けられていた。現在の本丸跡は東西215m、南北228mの広さで、かつてはここに城主の御殿などのさまざまな建物があった。
高田城跡/三重櫓
本丸南西側の塁上、内堀を見下ろして三重櫓が建っている。築城当初は「御三階櫓」と呼ばれ、天守を持たない高田城の象徴的意味合いの櫓だったという。明治期になった取り壊されてしまったが、1993年(平成5年)に復元されている。櫓は三層三階、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さは15mほど。御殿風の造りだ。
高田城跡/三重櫓からの眺望
三重櫓は入館料が必要だが、内部の見学も可能だ。1・2階は高田城に関する資料展示室、3階は展望室になっている。歴史に興味のある人なら資料展示室は必見だ。3階の展望室からは眼下に内堀を見下ろし、木立の向こうに高田の町が見え隠れする。その向こうに連なるのは西頸城丘陵の稜線だ。高田城跡を訪れた際にはぜひ三重櫓に入館し、歴史資料に目を通し、展望室からの眺望を楽しんでおきたい。
高田城跡/西二の丸広場
三重櫓から内堀を挟んだ西側が西二の丸広場だ。西二の丸広場には小林古径記念美術館や歴史博物館が併設されている。興味のある人は見学していくといい。西二の丸広場の南側部分には遊具や四阿などが置かれており、一般的な公園としての表情を見せるところだ。その中にも明治期に城跡内に置かれた陸軍第十三師団司令部の名残を見つけることができる。丹念に見ていくのがお勧めだ。
高田城跡/西堀橋
西二の丸広場の西側には西堀が横たわっている。西堀を埋め尽くすように蓮が茂っている。1871年(明治4年)、戸野目の大地主、保阪貞吉がレンコンを売って藩の窮状を救おうと外堀に蓮を植えたのが始まりだという。レンコン掘りは1962年(昭和37年)まで続けられたそうだ。その蓮も1979年(昭和54年)の異常気象などで全滅に近い被害を受けたそうだが、現在は往時をしのぐほどの景観に回復しているという。西堀を跨ぐ西堀橋から眺めれば、緑の蓮の葉と橋の朱い高欄が美しい対比を見せてたいへんにフォトジェニックだ。
高田城跡
高田城跡
高田城跡は本丸跡や内堀、外堀などに往時の面影が濃厚に残っている。随所に簡単な解説を添えた案内パネルが設置されているから、それを読みながら散策しつつ、往時の高田城を偲ぶのがお勧めの楽しみ方だろう。

今回訪れたのは九月の雨模様の日だったが、晴れていればさらに景観は美しいだろう。また高田公園は夜桜の名所としても名高く、春の桜の時期に訪れるのもお勧めだ。夏には西堀の蓮が美しい。その景観も見ておきたい。秋の紅葉や冬の雪化粧など、四季折々の景観を見てみたくなる。上越高田観光でぜひ足を運んでおきたい高田城跡である。
高田城跡
高田城跡
参考情報
交通
高田城跡(高田城址公園)は「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン」の高田駅の東に位置している。距離は1km強、ルートにもよるが徒歩で20分ほどで着く。

遠方から訪れる場合は上越新幹線上越妙高駅から「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン」に乗り換え、「直江津」方面へ約7分、あるいはJR信越本線直江津駅から「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン」に乗り換え、「妙高高原」方面へ約9分で着く。

車で訪れる場合は上信越自動車道上越高田ICや北陸自動車道上越ICなどが近い。高田城址公園に来園者用駐車場が設けられている。

飲食
高田城址公園内には飲食店はない。公園の西側は市街地で、駅に近づくに連れて飲食店も多いので散策しつつ好みの店を探すのがお勧めだ。

陽気の良い季節であれば予めテイクアウトのものを購入しておいて、公園内でアウトドアランチを楽しむのも悪くない。

周辺
高田の町は「雁木」の町だ。雁木の風情を楽しみながら町歩きを楽しもう。「町家交流館高田小町」や1911年(明治44年)に建てられた建物を利用して営業する映画館「高田世界館」にも立ち寄っておきたい。

高田の町の中心部から北へ6kmほど、車なら30分かからない距離に春日山城跡がある。上越観光の際にはぜひ訪ねておきたい。
城跡探訪
新潟散歩