横浜市西区〜保土ヶ谷区
旧東海道
(上台橋〜旧帷子橋跡)
Visited in October 2014
秋晴れの十月、横浜駅西口に降りた。横浜駅から北へ向かい、上台橋から旧東海道を西へ辿ろうと思ったのだ。以前、神奈川区内の旧東海道に沿って歩いたことがあったから、その続きを歩いてみたいと、かねてから思っていた。上台橋から西へ、保土ヶ谷宿に入る辺りまで歩いてみたい。
横浜線桜木町駅行き快速の電車を横浜駅で降り、西口へ出る。横浜駅西口に出るのは久しぶりだ。駅前はバスターミナル、その周囲にビルが建ち並ぶ。駅へ出入りする人並みが駅前の舗道を交差する。相変わらず繁華な様子だ。
駅前から北西へ辿って鶴屋町3丁目の交差点を目指す。途中、首都高速神奈川2号三ツ沢線をくぐる。高速道路の下は帷子川分水路だ。青々とした水を湛えた分水路の上に高速道路の橋桁がのしかかるように架けられている。この辺り、帷子川分水路が西区と神奈川区との区境になっている。帷子川分水路を渡れば神奈川区だ。
帷子川分水路から100mほどで鶴屋町3丁目交差点だ。交差するのは環状1号線、交差点には歩道橋が設けられている。歩道橋は交差するすべての道路を跨いでおり、横断歩道は設けられていない。歩道橋の側面には「横浜駅西口線 神奈川区鶴屋町3丁目」の表記がある。歩道橋で環状1号線を渡り、さらに北へ向かう。
鶴屋町3丁目交差点から数十メートル北へ進むと、青海波のモチーフでデザインされた欄干の橋が道路を跨いでいる。神奈川宿歴史の道の西端である上台橋、旧東海道を通している。上台橋から旧東海道を西へ辿るのが今回の目的だが、上台橋の北西側にある沢渡中央公園に寄り道して行こう。木々に囲まれた広場のある公園だ。訪れたのは十月半ば、公園の木々がそろそろ紅葉に染まろうとしている。
駅前から北西へ辿って鶴屋町3丁目の交差点を目指す。途中、首都高速神奈川2号三ツ沢線をくぐる。高速道路の下は帷子川分水路だ。青々とした水を湛えた分水路の上に高速道路の橋桁がのしかかるように架けられている。この辺り、帷子川分水路が西区と神奈川区との区境になっている。帷子川分水路を渡れば神奈川区だ。
帷子川分水路から100mほどで鶴屋町3丁目交差点だ。交差するのは環状1号線、交差点には歩道橋が設けられている。歩道橋は交差するすべての道路を跨いでおり、横断歩道は設けられていない。歩道橋の側面には「横浜駅西口線 神奈川区鶴屋町3丁目」の表記がある。歩道橋で環状1号線を渡り、さらに北へ向かう。
鶴屋町3丁目交差点から数十メートル北へ進むと、青海波のモチーフでデザインされた欄干の橋が道路を跨いでいる。神奈川宿歴史の道の西端である上台橋、旧東海道を通している。上台橋から旧東海道を西へ辿るのが今回の目的だが、上台橋の北西側にある沢渡中央公園に寄り道して行こう。木々に囲まれた広場のある公園だ。訪れたのは十月半ば、公園の木々がそろそろ紅葉に染まろうとしている。
沢渡中央公園を一巡りして上台橋へ戻り、いよいよ旧東海道を西へ辿ろう。上台橋の袂には小さな緑地スペースが設けられており、神奈川宿歴史の道の案内パネルが設置されている。傍らには道標も立てられている。東は神奈川台の関門跡、西は西区歴史街道を指し示している。旧東海道は車の通行も人の往来もほとんどなく静かな佇まいだが、しばらくして東から年配の人たちのグループがやってきた。“旧東海道を歩く”といった趣旨のグループなのだろう。案内役らしい人に導かれるようにしてグループは西へと坂を下りていった。
上台橋から西へ、旧東海道は緩やかな下り坂だ。と言うより、“神奈川の台”からの下り坂の途中に上台橋が設けられているのだ。道脇にはビルが建ち並び、旧街道の面影を残すものはほとんどない。上台橋から200mほど辿ると区境を越え、その先は西区だ。区境からさらに100mほど辿ると旧東海道は環状1号線に近づき、建物の間に首都高速神奈川2号三ツ沢線の横浜駅西口出入口が見える。そこから50mほど先、旧東海道の右手(北側)に軽井沢公園という小公園があった。公園西側、頭上には首都高速神奈川2号三ツ沢線が延びている。
上台橋から西へ、旧東海道は緩やかな下り坂だ。と言うより、“神奈川の台”からの下り坂の途中に上台橋が設けられているのだ。道脇にはビルが建ち並び、旧街道の面影を残すものはほとんどない。上台橋から200mほど辿ると区境を越え、その先は西区だ。区境からさらに100mほど辿ると旧東海道は環状1号線に近づき、建物の間に首都高速神奈川2号三ツ沢線の横浜駅西口出入口が見える。そこから50mほど先、旧東海道の右手(北側)に軽井沢公園という小公園があった。公園西側、頭上には首都高速神奈川2号三ツ沢線が延びている。
軽井沢公園を後にして旧東海道を西へ辿ろう。旧東海道は環状1号線に平行して延びている。環状1号線は広く造られた道路で交通量も多いが、旧東海道はひっそりとした旧道の佇まいだ。旧東海道は緩やかに南向きに曲がり、南西の方角へ向かって延びる。この辺り、旧東海道が町の境になっており、北側は南軽井沢の町、南側は楠町だ。沿道は住宅街の様相を呈してくる。
軽井沢公園から数百メートル、旧東海道は丁字路にぶつかる。その向こうは県道13号横浜生田線、この辺りでは「新横浜通り」と通称される道路が「浅間下」交差点から三ツ沢の丘へと登っている。その道路の側壁には“壁画”が描かれている。いわゆる“ストリートアート”ではなく、景観が殺風景になるのを避けるために敢えて描いたものだろう。丁字路を左に曲がればすぐに「浅間下」交差点、新横浜通りと環状1号線とが交差する。たいへんに交通量の多い交差点だ。新横浜通りの三ツ沢側には横断歩道が設けられておらず、歩道橋が架けられている。歩道橋を使って新横浜通りの西側へ渡ろう。
「浅間下」交差点の少し北側、新横浜通りから西へ逸れる道路がある。その道路沿いには商店が並び、簡素なアーケードも設けられている。浅間下商店街という商店街のようだ。小さな商店街の佇まいがなかなか魅力的だ。その道路と「浅間下」交差点の間、旧東海道は南西の方角へと延びている。
軽井沢公園から数百メートル、旧東海道は丁字路にぶつかる。その向こうは県道13号横浜生田線、この辺りでは「新横浜通り」と通称される道路が「浅間下」交差点から三ツ沢の丘へと登っている。その道路の側壁には“壁画”が描かれている。いわゆる“ストリートアート”ではなく、景観が殺風景になるのを避けるために敢えて描いたものだろう。丁字路を左に曲がればすぐに「浅間下」交差点、新横浜通りと環状1号線とが交差する。たいへんに交通量の多い交差点だ。新横浜通りの三ツ沢側には横断歩道が設けられておらず、歩道橋が架けられている。歩道橋を使って新横浜通りの西側へ渡ろう。
「浅間下」交差点の少し北側、新横浜通りから西へ逸れる道路がある。その道路沿いには商店が並び、簡素なアーケードも設けられている。浅間下商店街という商店街のようだ。小さな商店街の佇まいがなかなか魅力的だ。その道路と「浅間下」交差点の間、旧東海道は南西の方角へと延びている。
「浅間下」交差点から、旧東海道は浅間町を抜けて行く。北側の丘上には浅間神社が鎮座している。裏側から境内に入る小径も「浅間下」交差点近くにあるが、少し進んで正面から入って行くことにしよう。新横浜通りから数百メートル辿れば旧東海道沿いに鳥居があり、浅間神社参道入口と記されている。鳥居をくぐり、石段を登り、緩やかなスロープを上がって行くと、丘の上に社殿がある。浅間神社であるから主祭神として木花咲耶姫命を祀っている。創建年代は不明らしいが、1080年(承暦4年)に源頼朝が創建したものと伝えられているそうだ。容易に推測できることだが、浅間町の町名はこの浅間神社に由来している。この辺りは昔は芝生(しばう)村と呼ばれていたそうだが、「芝生」が「しぼう(死亡)」に繋がることから名が改められたものという。かつての地名を冠して「芝生浅間神社」と呼ばれることもあるようだ。明治末期の神社合祀の際に近隣の鹿島社と神明社を合祀している。社殿は関東大震災や戦災で焼失、その後になって再建されたものという。
境内地は丘の上で眺望が開けている。南側のフェンス脇にベンチが置かれているのは、その眺望を楽しむ人たちのためのものか。さすがに眼下に町を一望するという高さではないが、建ち並ぶビルの向こうにランドマークタワーのシルエットなども見えていて楽しめる。浅間神社の鎮座する丘は昔は袖摺山と呼ばれており、すぐ下まで海だったらしい。その頃には今とは全く違う景色が広がっていたのだろう。
境内地は丘の上で眺望が開けている。南側のフェンス脇にベンチが置かれているのは、その眺望を楽しむ人たちのためのものか。さすがに眼下に町を一望するという高さではないが、建ち並ぶビルの向こうにランドマークタワーのシルエットなども見えていて楽しめる。浅間神社の鎮座する丘は昔は袖摺山と呼ばれており、すぐ下まで海だったらしい。その頃には今とは全く違う景色が広がっていたのだろう。
浅間神社に今回の散策の無事を祈願した後はまた旧東海道を辿ろう。旧東海道はほぼ真っ直ぐに、しかし緩やかな曲がりを伴いながら南西の方角へと延びてゆく。この“緩やかな曲がり”が旧街道の面影を感じさせてくれる。沿道は基本的に住宅街だ。神明下公園という小公園の横を過ぎ、沿道の町並みの佇まいを楽しみながら旧東海道を歩く。古い蔵らしい建物や浅間町三丁目自治会の山車格納所など、小さな発見が楽しい。神明下公園の北側の丘上には浅間台みはらし公園があるが、今回は立ち寄らずにこのまま旧東海道を辿ろう。
歩いていると、道路の車道と歩道とを区切るライン上に、旧東海道を示すプレートが埋め込まれているのに気付く。このプレートによって、今歩いている道が間違いなく旧東海道であることがわかる。このプレートに描かれた、アルファベットのAのような三角形のマークは西区歴史街道のシンボルマークで、旧東海道と横浜道、保土ヶ谷道の三つの古道をデザインしたものだそうだ。
歩いていると、道路の車道と歩道とを区切るライン上に、旧東海道を示すプレートが埋め込まれているのに気付く。このプレートによって、今歩いている道が間違いなく旧東海道であることがわかる。このプレートに描かれた、アルファベットのAのような三角形のマークは西区歴史街道のシンボルマークで、旧東海道と横浜道、保土ヶ谷道の三つの古道をデザインしたものだそうだ。
「浅間下」交差点から1km近く歩き、旧東海道は八王子道との追分に差し掛かる。「追分」とは道の分岐点、分かれ道のことだ。この追分から八王子道が分かれ、帷子川に沿って北へ延びる。横浜開港以後、この八王子道を辿って横浜へと絹が運ばれたことから「絹の道」とも呼ばれる。かつての八王子道の名残は相模原から町田、八王子にかけて随所で見つけることができるが、特に八王子市鑓水は「絹の道」が八王子市の史跡にも指定され、「絹の道資料館」も建てられている。幕末から明治初期にかけて、「鑓水商人」が生糸の仲買で財を成したという。興味のある人は訪ねてみるといい。現在の追分は街中の小さな交差点という様相で、案内標柱がなければそれと気付かないほどだが、生糸運搬の商人たちが行き交った往時の光景を想像してみるのも楽しい。
旧東海道と八王子道の追分を過ぎると保土ヶ谷区だ。旧東海道は保土ヶ谷区宮田町の東端部を抜けてゆく。道脇には「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図」と題した案内パネルも設置されている。少し目を通しておこう。追分を過ぎてすぐ、旧東海道を跨ぐゲートがある。ゲートには松原商店街の名が記され、「やすい 来やすい」と添えられている。この先が、どうやら松原商店街という商店街のようだ。近づくにつれて、商店街の賑わいが見えてくる。
松原商店街は正しくは洪福寺松原商店街という。土曜日の午後、旧東海道は車両進入禁止の措置がとられ、大勢の買い物客が行き交っている。たいへんな賑わいだ。今回訪れたのは「体育の日」の連休前の土曜日だったこともあり、商店街入口に差し掛かったときには商店街で連休のイベントが行われているのだろうかと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。この賑わいは“連休だから”、あるいは“連休のイベントが行われているから”ではなく、日常的なものらしい。「ハマのアメ横」との異名もあり、平日でも2万人ほど、年末には10万人にも及ぶ集客力があるとも聞く。決して規模の大きな商店街というわけではないのだが、良いものが安く買えるというので人気を集めているのだそうだ。これほどの賑わいを見せる商店街はなかなかないのではないか。
商店街にはさまざまな店舗が並ぶ。魚屋、肉屋、八百屋、衣料品店、酒屋等々、比率としては食料品店が多いようだ。一部にチェーン店も軒を並べるが、ほとんどは個人商店だ。道には店舗のオーニング(可動式の日除け)が張り出され、あるいは道の両脇を繋いでシートの“屋根”が付けられていたり、パラソルが立てられていたり、そこへ道にはみ出して商品が並べられている。そのせいで道は少し狭くなり、そこを大勢の買い物客が行き交う。その賑わいの様子がいい。“商店街散策”を趣味とする人であれば一度は訪れてみるべき商店街だろう。
松原商店街は正しくは洪福寺松原商店街という。土曜日の午後、旧東海道は車両進入禁止の措置がとられ、大勢の買い物客が行き交っている。たいへんな賑わいだ。今回訪れたのは「体育の日」の連休前の土曜日だったこともあり、商店街入口に差し掛かったときには商店街で連休のイベントが行われているのだろうかと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。この賑わいは“連休だから”、あるいは“連休のイベントが行われているから”ではなく、日常的なものらしい。「ハマのアメ横」との異名もあり、平日でも2万人ほど、年末には10万人にも及ぶ集客力があるとも聞く。決して規模の大きな商店街というわけではないのだが、良いものが安く買えるというので人気を集めているのだそうだ。これほどの賑わいを見せる商店街はなかなかないのではないか。
商店街にはさまざまな店舗が並ぶ。魚屋、肉屋、八百屋、衣料品店、酒屋等々、比率としては食料品店が多いようだ。一部にチェーン店も軒を並べるが、ほとんどは個人商店だ。道には店舗のオーニング(可動式の日除け)が張り出され、あるいは道の両脇を繋いでシートの“屋根”が付けられていたり、パラソルが立てられていたり、そこへ道にはみ出して商品が並べられている。そのせいで道は少し狭くなり、そこを大勢の買い物客が行き交う。その賑わいの様子がいい。“商店街散策”を趣味とする人であれば一度は訪れてみるべき商店街だろう。
松原商店街を通り抜けると目の前を広い道路が横切っている。国道16号だ。信号が変わるのを待って国道16号を横断し、旧東海道を辿ろう。国道16号を越えれば天王町だ。旧東海道は南南西の方角へと延びている。旧東海道沿いには店舗が数多く建ち並び、商店街の様相だ。少し進んだところの道脇に「江戸方見附跡」についての解説パネルが設置されている。芝生(しばう)の追分から天王町へ至る途中に「江戸方見附」があったという。保土ヶ谷区郷土史によれば現在の天王町一丁目11-3付近(すなわち解説パネルが設置されている辺り)にあったそうだ。「江戸方見附」は宿場の江戸側の出入口に置かれていた施設で(京都側に置かれていたものは「上方見附」という)、すなわちここから保土ヶ谷宿の「宿内(しゅくうち)」ということになる。いよいよ保土ヶ谷宿である。
江戸方見附跡から100mほど進むと、旧東海道沿い、左手に橘樹(たちばな)神社が鎮座している。素盞男尊(すさのおのみこと)を祀る神社で、1186年(文治2年)に京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請して建立したものと伝えられているそうだ。祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社と社名は変遷し、現在の橘樹神社となったのは1921年(大正10年)のことだそうだ。社殿は関東大震災や戦災を被り、現在のものは戦後になって再建されたものという。市街地の立地で、周辺にはビルが建ち並ぶ土地柄だが、境内は地域の鎮守らしい佇まいを保っている。ちなみにこの辺りの町名である「天王町」は、この神社の旧名に由来しているのだそうだ。
橘樹神社前から100m足らずで川の岸辺に出る。帷子川だ。帷子橋が川を跨いで旧東海道を渡している。すぐ東側では環状1号線が帷子川を越えている。帷子川は護岸の施された巨大な溝のような様相の川だ。覗き込んでみると川の中には数多くの鯉が群れ泳いでいる。帷子橋の西側に立って東を見ると、周辺の町並みの向こうにランドマークタワーの姿が見える。ランドマークタワーはここからほぼ真東の方角、直線距離で2.5kmほどのところに建っている。
江戸方見附跡から100mほど進むと、旧東海道沿い、左手に橘樹(たちばな)神社が鎮座している。素盞男尊(すさのおのみこと)を祀る神社で、1186年(文治2年)に京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請して建立したものと伝えられているそうだ。祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社と社名は変遷し、現在の橘樹神社となったのは1921年(大正10年)のことだそうだ。社殿は関東大震災や戦災を被り、現在のものは戦後になって再建されたものという。市街地の立地で、周辺にはビルが建ち並ぶ土地柄だが、境内は地域の鎮守らしい佇まいを保っている。ちなみにこの辺りの町名である「天王町」は、この神社の旧名に由来しているのだそうだ。
橘樹神社前から100m足らずで川の岸辺に出る。帷子川だ。帷子橋が川を跨いで旧東海道を渡している。すぐ東側では環状1号線が帷子川を越えている。帷子川は護岸の施された巨大な溝のような様相の川だ。覗き込んでみると川の中には数多くの鯉が群れ泳いでいる。帷子橋の西側に立って東を見ると、周辺の町並みの向こうにランドマークタワーの姿が見える。ランドマークタワーはここからほぼ真東の方角、直線距離で2.5kmほどのところに建っている。
帷子川を渡れば相鉄線天王町駅が目の前だ。通りの向こうには高架の線路が見えている。通り沿いには店舗が並び、“駅前”の佇まいだ。帷子橋から細道となった旧東海道はそのまま相鉄線の高架をくぐって西へ抜ける。線路の西側には天王町駅前公園という小公園が設けられている。この公園は旧帷子橋の跡だ。かつて帷子川はここを流れており、帷子橋が架けられていた。1964年(昭和39年)の河川改修工事によって帷子川の流路が大きく変わり、それによって帷子橋の位置も変わってしまったというわけだ。天王町駅前公園の中心部は旧帷子橋を模して造られており、なかなか楽しい。公園脇には「江戸日本橋より八里」と記された石柱が建ち、さらに周辺の案内図なども設置されている。旧東海道はここから環状1号線と重なり、南西の方角へと真っ直ぐに延びている。
天王町駅前公園に設置された案内板によれば、北に200m余り行ったところに「旧古町橋跡」があるそうだ。少し足を延ばしてみることにしよう。天王町駅前公園から北へ、帷子公園の横を通り抜けて進んでゆくと、丁字路の交差点があり、交差点の角に「旧古町橋跡」についての簡単な解説を記したパネルが設置されている。現在知られている「旧東海道」は1648年(慶安元年)に竣工したもので、1601年(慶長6年)に保土ヶ谷宿が成立した当時、東海道はここを通っていたそうだ。当然、東海道が帷子川を渡る橋があったわけで、その橋が「古町橋」だ。天王町駅前公園の案内パネルなどには「旧帷子橋」の名に「(旧新町橋)」と添えられているが、新道が造られたことに伴って新しく架けられた橋が「新町橋」と呼ばれていたからだ。現在の「旧古町橋跡」にはもちろん川も橋もなく、町の中の小さな交差点だが、その道の様相に古い時代の面影を探してみるのも一興だろう。現在の古町橋は「旧古町橋跡」の100mほど北で帷子川を跨いでいる。
天王町駅前公園から環状1号線を渡って東側にも足を延ばしてみよう。公園横の信号で環状1号線を渡って数十メートル東へ進むと今井川を跨いで南北橋という橋が架かっている。今井川も改修が施され、人工の水路のような景観だ。南北橋から上流側を見ると真っ直ぐに延びる流路が市街地の中を流れる川というものの姿を象徴しているようにも感じられる。下流側に視線を向ければ今井川は大きく右手に曲がり、その先で帷子川に合流する。帷子川が改修によって流路が変わる前の合流点はどの辺りだったのだろう。その当時は今井川の流路も違っていたのだろうか。
南北橋の北東側、今井川の河岸に小さな緑地スペースが設けられており、ピラカンサと金木犀が多く植えられている。季節は秋、ピラカンサは赤い実を付けている。その数がすごい。これほど多くの実をつけたピラカンサはなかなか見ることができないのではないか。南北橋を渡った先には西久保町公園という公園がある。広場を中心に構成された公園だが、周辺部には樹木も植栽されている。公園を一巡りした後は、今回の散策もそろそろ終わりにして、天王町駅から帰路を辿ることにしよう。
南北橋の北東側、今井川の河岸に小さな緑地スペースが設けられており、ピラカンサと金木犀が多く植えられている。季節は秋、ピラカンサは赤い実を付けている。その数がすごい。これほど多くの実をつけたピラカンサはなかなか見ることができないのではないか。南北橋を渡った先には西久保町公園という公園がある。広場を中心に構成された公園だが、周辺部には樹木も植栽されている。公園を一巡りした後は、今回の散策もそろそろ終わりにして、天王町駅から帰路を辿ることにしよう。
横浜市内の旧東海道はすっかり現代的な市街地に変貌し、往時の面影を見つけることは難しいが、旧跡や古い時代の名残を探しながらの散策は楽しい。次の機会には保土ヶ谷宿からさらに西へ辿ってみたい。