横浜線沿線散歩街角散歩
横浜市中区花咲町〜西区紅葉ヶ丘
音楽通から紅葉坂
October 2000
現況と異なる内容を含んでいます
紅葉坂
桜木町駅の少しばかり北、みなとみらいのランドマークタワー脇から線路をくぐって南西に延びる道路が緑濃い丘へと登っている。その坂道を「紅葉坂」という。紅葉坂を登り切ったところには県立青少年センターが建っているが、ここは横浜開港時に神奈川奉行所が置かれていた場所だった。紅葉坂を挟んで横浜の総鎮守として信仰を集める伊勢山皇大神宮もある。石畳の坂道の風情も楽しい紅葉坂近辺を歩いてみた。
JR根岸線桜木町駅を西に出て、野毛方面へ向かって「野毛ちかみち」を抜けると花咲町だ。花咲町の中央部あたりを南北に「音楽通り」という名の道が抜けている。桜木町駅の西側を通る広い道路の沿道はビルが建ち並んで無機的な風景だが、こちらは少々古びたふうの建物もあり、ギャラリーなどもあって街の息づかいを感じる通りだ。

ガス灯記念碑
この「音楽通り」を北に向かって進むと、やがて本町小学校の横へ至る。本町小学校の正門横に古風な意匠のガス灯が立っている。ここは日本のガス事業を興した高島嘉右衛門のガス工場のあった場所だ。1870年(明治3年)、高島嘉右衛門は10名足らずの有志とともに組織を作り、計画書を県に申請、すでに事業の許可を申請していたドイツのシュルツ=ライス商会に対抗して勝利し、翌1871年(明治4年)に伊勢山下石炭蔵のあったこの地にガス工場を建設した。

翌1872年(明治5年)、馬車道から本町通りにかけて日本初のガスの灯がともる。その数十数基であったというが、その年の内には300基にまで増やし、その二年後には東京銀座にもガス灯をともしている。馬車道の関内ホール前には、この日本初のガス灯を記念する復元ガス灯と記念碑がある高島嘉右衛門のガス会社は現在の東京ガスに発展するが、本町小学校前のガス灯横の記念碑はその東京ガスによって寄贈されたものであるらしい。
紅葉坂
「音楽通り」をさらに北に進むと、やがて西へと登る坂道にぶつかる。「紅葉坂」だ。この付近はちょうど中区と西区の区境にあたり、紅葉坂はすでに西区になる。「紅葉坂」とは何とも素敵な名称で、さぞ秋には紅葉に染まったモミジの美しい場所であろうと期待してしまうのだが、実際には意外にそうでもない。かつて開港間もない頃にこのあたりに楓の木が多く移植されたらしいのだが、今ではその風雅な名称にその頃の名残があるだけのようだ。

紅葉坂を登りつつ振り返ると、みなとみらい地区の高層建築群が見える。特にランドマークタワーとコスモワールドの観覧車が対を成すように視界の正面に目立っている。石畳の紅葉坂は近辺の様相にも古い横浜の風情を残す場所だが、そこから見る最も新しい横浜の姿との取り合わせは、幕末の開港以来急激に発展してきた横浜の街のひとつの象徴と言えるかもしれない。
神奈川奉行所跡の碑
紅葉坂を登り切ると道の右手に県立青少年センターが建っており、その敷地内に道路に面して神奈川奉行所跡の碑が置かれている。神奈川奉行所は開港直後の1859年(安政6年)に設置され、その前年に外国奉行に任命された水野筑後守忠徳や酒井隠岐守忠行ら五名が神奈川奉行兼務を命ぜられて、開港期の横浜の内政事務の任に当たった。現在の神奈川県庁辺りには神奈川奉行所の機関のひとつとして神奈川運上所が置かれたが、こちらは関税事務などの外交事務を処理する機関だった。

神奈川奉行所は戸部村の丘の上に設けられたことから「戸部役所」とも呼ばれたというが、敢えて開港場から離れた丘の上に設置されたのには意味があり、いざというときの要塞化にも備えたものであろうという。

神奈川奉行所は1868年(明治元年)に明治政府に移管、後に横浜裁判所に合併、廃止された。横浜裁判所は1871年(明治4年)の廃藩置県後に伴って神奈川県庁となり、神奈川運上所もまたその時に「横浜運上所」と改称されて大蔵省の管轄となり、さらに翌1872年(明治5年)には「運上所」の名称が「税関」に統一されて「横浜税関」となる。わずかに十年ほどの期間のみ機能した神奈川奉行所だが、激変する横浜黎明期の行政を担った役所だった。現在の県立青少年センターの駐車場の中央あたりに枝を広げる大楠はその当時からそこにあったらしいものだという。
金星太陽面経過観測記念碑
神奈川奉行所跡の碑から少しばかりみなとみらい側に戻って青少年会館前には「金星太陽面経過観測記念碑」という耳慣れない名称の碑が建っている。これは1874年(明治7年)12月9日に起きた金星の「日面通過」という現象をこのあたりで観測したことを記念したものだ。

「日面通過」とは地球より内側の軌道を回る「内惑星」が地球から見て太陽面の上を通過する現象で、すなわち地球と惑星と太陽とが一直線に並ぶ必要があるわけだが、地球と惑星の軌道面の傾きなどから常に起こるものではなく、金星の場合は約百年に一度の頻度でしかその現象を見ることはできないのだという。ちなみに1874年(明治7年)の後には1882年(明治15)に欧米で観測されたのみで、次に金星の日面通過が観測されるのは2004年6月8日であるという。

1874年(明治7年)の金星の日面通過の際にはその観測の最適地が日本であったらしく、世界各国から天文学者が訪れることになった。日本の各地で観測が行われたが最適地であったのは長崎で、フランス隊やアメリカ隊が長崎で観測を行っている。この時遅れて到着したメキシコの観測隊は長崎に観測所を確保することができず、横浜に拠点を構えた。それが現在の宮崎町のあたりで、観測器材を据付けた台石が今も宮崎町の個人宅に残っているという。この観測を記念した碑がこの「金星太陽面経過観測記念碑」で、観測から百年後の1974年(昭和49年)に建立されたものだ。

金星の日面通過観測のために横浜を訪れたコバルビアス隊長ほか五名のメキシコ観測隊を、明治政府は電気設備などの提供も行うなどして厚遇した。帰国したコバルビアスは「ディアス・コバルビアス 日本旅行記」という見聞録をまとめて当時の日本事情を紹介、さらには国交樹立の必要性を強く説いたのだという。そしてコバルビアス来日から十余年を経た1888年(明治21年)、日本とメキシコとの間に日墨修好通商条約が締結される。不平等条約に苦しむ日本政府にとって初めての、相互対等主義による外国との条約だった。
井伊直弼像
県立青少年センターの手前の道を北へ入り込んでゆくと掃部山公園がある。公園入口付近では東に向かっての眺望が良く、眼下の花咲町の町並みからその向こうのランドマークタワーまでが間近に見える。掃部山公園は「桜田門外の変」に倒れた幕末の大老井伊直弼縁の場所で、井伊直弼の死後、明治期になって旧彦根藩の士族によって井伊家所有のものとなり、その後に井伊家から横浜市に寄贈されたものだ。公園広場には横浜港を見下ろすように井伊直弼の銅像が立っている。

井伊直弼の像の立つ広場の向こうには横浜能楽堂が建っている。能楽堂の本舞台は、1875年(明治8年)に東京根岸の旧加賀藩主前田斉泰邸に建てられたもので、関東では現存する最古の舞台であるそうだ。有料公演時以外の通常時には二階席から無料で観覧できるので散策のついでに覗いてみるのもよいかもしれない。

横浜能楽堂の前を抜けて再び紅葉坂に戻ると、県立青少年センターの前、紅葉坂を挟んでホテル開洋亭が建っている。開洋亭の横の小道は伊勢山皇大神宮の裏参道で、開洋亭も神宮の敷地内に建っているものであるらしい。開洋亭は古い洋館を思わせる瀟洒な意匠の建物で、緑多い丘の上という立地や、伊勢山皇大神宮本殿での挙式も可能な結婚式などで人気のようだ。伊勢山皇大神宮は緑の丘に建つ横浜の総鎮守で、天照大御神を祀る。境内は気品に満ちて凛とした空気に包まれている。伊勢山皇大神宮から南に足を延ばせば野毛の街野毛山公園にも近い。散策の足を延ばすのもよいだろう。
紅葉坂を挟んで掃部山と伊勢山、さらには野毛山と、本来はひとつの丘陵を成す丘だが、この近辺には公園や史跡などが点在していて散策は楽しい。またこの一帯は桜の名所として名を知られるところも多く、春の散策はさらにお勧めと言ってよいだろう。それにしても、桜木町、花咲町、紅葉坂と、風雅な地名がこの近辺に集まっているのがおもしろい。
追記 2004年6月8日の金星日面通過は各地で観測され、天文ファンを大いに喜ばせた。金星が太陽面上を通過したのは14時頃から20時頃までで、日本では通過が完了する前に日没を迎えた。2012年6月6日には再び日本で金星日面通過が観測された。この時は午前7時過ぎから約6時間半をかけて金星が太陽面を通過した。次回は2117年のことだという。
復元ガス灯