横浜線沿線散歩公園探訪
横浜市西区紅葉ケ丘
掃部山公園
Visited in October 2000
掃部山公園
掃部山公園入口
桜木町駅を野毛方面へ出て北西に進み、紅葉坂を登って神奈川県文化センターの脇を入っていったところに掃部山公園がある。「掃部山」は「かもんやま」と読む。このあたりは野毛山から続く丘陵の一部で、県立音楽堂の建つあたりから公園へと向かう道は東に視界が開けて眼下に花咲町の町並みが見え、その向こうにはランドマークタワーが間近に見える。

現在の掃部山公園のある丘には明治初期には鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があった。鉄道開通後も付近一帯は鉄道用地となっており、そのためこの丘は「鉄道山」と呼ばれていたのだという。
井伊直弼像 紅葉坂の方から県立音楽堂の脇を抜け、公園入口の石段を登ると広場があり、広場の奥は一段高くなって井伊直弼の像が建っている。井伊直弼は幕末の開港期に於ける重要な人物で、「安政の大獄」や「桜田門外の変」などの歴史上の出来事などでもその名を知られる人物だ。

井伊直弼は彦根藩第11代藩主直中の14男として1815年(文化12年)に生まれている。青年時代までの直弼は政治の表舞台に立つこともなく、武芸や学問に励む身であったといい、特に茶道で秀でていたのだという。その直弼が政治の表舞台に登場するのは1850年(嘉永3年)、時の藩主直亮が亡くなった後に第13代藩主の座についてからだ。時代は1853年のペリー来航を迎えようとしていた時だった。

この時、幕政は将軍後継問題に揺れていた。時の13代将軍家定は病弱な人物で実子がなかった。慣例として御三家から後継が選ばれるわけだが、一橋慶喜を推す島津斉彬、松平慶永、水戸の斉昭らに対して、井伊直弼は譜代大名らと大奥とを味方につけて紀州藩主徳川慶福(家茂)を擁立した。一橋派と南紀派の対立が激化する中で、1857年(安政4年)、一橋派であった老中阿部正弘が病死、翌1858年(安政5年)に井伊直弼は大老に就任する。

実質的な幕閣最高位の地位を得た井伊直弼は独裁的に政策を断行、勅許を待たずに同年「日米修好通商条約」に調印、将軍後継を慶福に決定した。将軍後継の争いに勝利した井伊直弼は水戸の斉昭、尾張藩主徳川慶勝らの一橋派を処分、さらには攘夷派の志士や学者たちをことごとく弾圧した。「安政の大獄」である。吉田松陰が処刑されたのもこの時だった。

1860年(安政7年)、雪の中を登城途中であった井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士ら18名の襲撃を受けて惨殺される。世に言う「桜田門外の変」である。享年46歳であった。

やがて時代は明治を迎え、井伊直弼の死から20年ほど後の1882年(明治15年)頃から、旧彦根藩の士族らが井伊直弼の記念碑建立を計画する。彼らは「鉄道山」と呼ばれていた丘を買収、井伊家所有とし、この丘を井伊直弼が名乗った「井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼」に因んで「掃部山」と呼ぶようになった。現在も残る公園内の日本庭園は井伊家所有の頃に庭園として造営されたものであろうという。

記念碑は正四位上左近衛権中将の正装に身を包んだ井伊直弼の銅像で、横浜開港50周年記念の1909年(明治42年)に除幕式が行われる予定だった。ところが旧攘夷派の流れを汲む人々らの圧力によって中止を命じられることになる。旧彦根藩の士族たちはそれを無視して除幕式を断行したそうだが、一夜のうちに井伊直弼の銅像の首が切り落とされてしまったという話がある。さらに時代が下って第二次大戦中の1943年(昭和18年)には政府の金属回収指示によって銅像は取り払われ、その行方は戦後もわからずじまいであるという。受難の像である。

現在の銅像は1954年(昭和29年)に再建されたもので、台座部分も含めると高さ11メートルの堂々としたものだ。ちなみに台座を設計したのは赤レンガ倉庫(横浜新港埠頭第2号倉庫)横浜正金銀行(現神奈川県立博物館)などを設計した妻木頼黄で、現在の台座も1909年(明治42年)当時のそのままだという。港を睨むように立つ井伊直弼の像だが、しかし今はその視線の先にはランドマークタワーが聳え建っている。明治期後半には井伊家所有となった掃部山は、1914年(大正3年)に庭園部分と銅像を含めて井伊家から横浜市に寄贈され、整備の後に同年秋に掃部山公園として開園した。
掃部山公園/日本庭園
現在の掃部山公園はその歴史的由来の他にはこれといって特徴のあるものではなく、広場と日本庭園による構成は公園としては標準的なものと言えるだろう。井伊直弼の銅像の建つ一角から一段下がって広場があり、広場のベンチにはのんびりとくつろぐ人の姿がちらほらとある。その広場から北へ散策路を辿ると池を配した日本庭園がある。落ち着いた一角だが、庭園として特筆するほどのものでもないように思える。

掃部山公園/児童遊園
日本庭園からさらに北へ一段下がって、子どもたちのための遊び場の広場がある。各種の遊具が置かれ、花壇の花々も美しい広場は近所のお母さんたちが子どもを連れて遊びに来ている姿が多い。こうした場の日常的な光景として、この広場は子どもたちの遊び場であると同時にお母さんたちの社交場でもあるようだ。

飯岡幸吉歌碑
掃部山公園は桜の名所としてもよく知られており、春の桜の花期には丘全体が桜色に染まるほどの見事な景観を見せてくれる。また井伊直弼が茶道に通じていたことにあやかって「虫の音を聞く会」という茶会が夏の恒例行事として1965年(昭和40年)から行われているという。上段の広場と日本庭園とを繋ぐ散策路の脇に、花咲町に生まれ住んだアララギ派の歌人飯岡幸吉の歌碑があるが、この歌碑に刻まれた歌は「虫の音を聞く会」を題材にしたものであるそうだ。
横浜能楽堂
公園の一角、井伊直弼像の背の向こうには横浜能楽堂が建っている。この能楽堂の本舞台は、1875年(明治8年)に東京根岸の旧加賀藩主前田斉泰邸に建てられ、後に染井の松平頼寿邸に移築されて使用されていたものを移築復元したもので、関東では現存する最古の舞台であるそうだ。能楽堂内には能楽の装束や楽器などを常設展示している他、有料公演時以外であれば二階席から舞台を無料で観覧できる。
掃部山公園は「公園」として特に充実した設備を持つわけではないが、横浜の町中にあって緑濃い有り様は市民の憩いの場として貴重なものであろうし、訪問者の立場であればその歴史的由来に目を向けて幕末から明治期にかけての出来事に想いを馳せつつ散策を楽しむのもよいものかもしれない。公園東側の花咲町に面した小道からは眼下の町並みとみなとみらい地区の高層建築群の眺望が楽しめる。桜木町駅からは少し歩くが、紅葉坂から伊勢山皇大神宮へかけての散策を楽しみつつ立ち寄るのがよいだろう。普段の静かな佇まいもよいものだが、桜の時期の華やかな風景の中の散策はお勧めといっていいだろう。
掃部山公園