1928年(昭和3年)、日本初の林学博士であり、後に「公園の父」とも呼ばれた本多静六博士がこの地を訪れ、現在の「嵐山渓谷」の調査を行った(ちなみに、本多静六博士は現在の埼玉県久喜市菖蒲町の生まれである)。その時、渓谷下流部に架かる槻川橋からの美しい景観に感銘を受け、京都の嵐山(あらしやま)によく似ているというので、「武蔵国の嵐山だ」として「武蔵嵐山」の名が生まれたのだという。現在の嵐山(らんざん)町は1955年(昭和30年)に菅谷村と七郷村が合併して発足した菅谷村が1967年(昭和42年)に町制を施行して嵐山町となったものだが、この町名の由来となったのが、他ならぬ「武蔵嵐山」である。
本多静六博士も認めた景勝ということで、「武蔵嵐山」はたいへんな評判となり、その景色を見ようと多くの人々が詰めかけたという。渓谷近くには「松月楼」という料理旅館が建ち、最盛期には年間百万人が訪れて大いに賑わった。東武鉄道も「東日本新名勝」として紹介し、200名以上が利用する場合には臨時列車も走らせていたという。駅から「武蔵嵐山」の渓谷へと、観光客の長い列ができたほどだとというのだから驚く。現在の東武東上線武蔵嵐山駅は、そもそもは菅谷村の中心部にあった駅だということから菅谷駅という名だったが、「武蔵嵐山」の最寄り駅ということで1935年(昭和10年)には武蔵嵐山駅に改称されている。
戦後、世の中は戦後復興から高度経済成長へと進み、戦前に賑わった景勝地は忘れられてしまったかのように、「武蔵嵐山」への観光客の足も戻ることはなかった。「松月楼」も本格的に営業再開されることもなく、経営者が変わって「一平荘」として営業されていたらしいが、それも昭和30年代頃までだったようだ。
現在、「嵐山渓谷」と周辺の樹林地は「緑のトラスト保全第三号地」として保全されている。さいたま緑のトラスト基金と嵐山町が1997年(平成9年)に一帯の土地を買収、13.5ha余りの面積が「武蔵嵐山渓谷周辺樹林地」として1998年(平成10年)に「さいたま緑のトラスト保全第三号地」の指定を受け、現在に至っている。