湯島天神が創建されたのは西暦458年のことという。湯島天神の縁起によれば、勅命によって天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀って創建されたものらしい。雄略天皇の御代、いわゆる“大化の改新”以前のことだ。当然のことながら菅原道真公の生きた時代(845年〜903年)より古く、創建されたときには“天神社”ではなかったということになる。やがて1355年(正平10年)、郷民が菅原道真公を慕って北野天満宮から勧請して合祀、湯島天神が菅原道真公と天之手力雄命の二柱の神を祀っているのはこうした縁起による。1478年(文明3年)に太田道灌によって再建された後、江戸時代に入ると徳川の庇護を受け、菅原道真公を祀る神社として広く人々の信仰を集めたという。江戸時代の湯島天神と周辺は繁華な場所であったようで、毎月十日、二十五日の縁日にはずいぶんと賑わったという。
境内梅園の一角に「奇縁氷人石」という石柱が立っている。石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。これは江戸時代の「迷子石」の名残だそうだ。かつての江戸は人口密集地で、迷子になってしまう子どもも少なくなかった。それに備えて子どもは名や住居を記した「迷子札」を提げていたそうだが、「迷子札」を持っていない子どももおり、そのまま行方不明になってしまうこともあった。そうしたとき、迷子を出した親は自分の子の、迷子を見つけた方はその子の名や背格好、特徴などを紙に書いて「迷子石」に張った。双方がそれを見て手がかりを探したのだという。「迷子石」は江戸各地、人の多く集まるところにあり、相応の成果があったらしい。湯島天神境内の「迷子石」は、江戸時代の湯島天神が人々の多く集まる繁華なところであったことを物語るものだろう。
現在の湯島天神はお蔦と主税の悲恋を描いた物語「婦系図」の舞台として登場することでも広くその名を知られている。物語の設定や粗筋は他に譲るが、主税がお蔦に別れを切り出し、“切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時に言うものよ。私にゃ死ねと言って下さい”という有名な台詞をお蔦が口にする場面、その舞台が湯島天神の境内である。
この物語は、元々は1907年(明治40年)に泉鏡花が新聞の連載小説として発表した「婦系図」を原作としているが、原作にはこの湯島境内での別れの場面はなく、後に柳川春葉が舞台用に脚色したときに加えられたものという。泉鏡花自身もこれを気に入り、この場面を付け加えた舞台用の脚本を後に発表している。この名場面を加えた「婦系図」は、その後幾度も舞台で演じられ、映画化もなされ、今ではすっかりこちらの方が浸透してしまっている。境内梅園の一角には泉鏡花の「筆塚」がある。1942年(昭和17年)に建てられたものという。