「財閥」という言葉が使われ出したのは明治期の後半になってからのことらしい。「財閥」の学術的定義については他に譲るが、簡単に言えば家族あるいは同族によって所有、支配された寡占企業の集合体による事業形態のことだ。戦後になって連合国軍最高司令官総司令部(いわゆるGHQ)の指令によって“財閥解体”が行われるまで、日本の経済界には多くの「財閥」が存在した(財閥解体の後も、かつての「財閥」の名残を色濃く残す企業グループが存在している)。その中で最も有名なものが三井、住友、三菱の「三大財閥」である。「三大財閥」のうち、三井と住友は江戸時代以前から続く旧家だが、三菱の歴史は幕末から明治維新への動乱の中で始まる。
三菱財閥の創設者は土佐藩出身の岩崎彌太郎である。岩崎彌太郎は1835年(天保5年)、土佐国井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、極貧の中で幼少期を過ごした。文才に恵まれていたといい、21歳のときに学問で身を立てようと江戸に出て安積艮斎の門人となったが、ほどなく土佐に戻っている。土佐に戻ってからの彌太郎は吉田東洋や後藤象二郎らと親交を結び、藩職に就くようになる。商売の基礎を学んだのもこの頃らしい。1866年(慶応2年)には藩の開成館貨殖局に勤務、後には坂本龍馬が設立した「亀山社中」、後の「海援隊」の会計係を務めている。そして明治維新、1869年(明治2年)には岩崎彌太郎は土佐藩の開成館大阪出張所(大阪商会)の責任者に抜擢、翌年には大阪商会が私商会へと移行した「九十九商会」の監督係を任される。
藩の要職に就く身になっていた彌太郎だが、1871年(明治4年)の廃藩置県によってその地位を失ってしまう。新しい時代を迎えた中で、彌太郎は九十九商会の経営を引き受ける。後藤象二郎や板垣退助に説得されての決断だったという。彌太郎の“実業家”としての出発点である。九十九商会の主な事業は海運業で、顧客の需要をうまくつかみ、次第に業績を伸ばしてゆく。九十九商会は1872年(明治5年)に「三川商会」に、さらに翌年には「三菱商会」に改称、そして1874年(明治7年)、三菱商会は本店を東京日本橋に構え、「三菱蒸気船会社」を社名とした。彌太郎はこの時点で初めて自らを「社長」と名乗ったという。
その後の三菱商会は大隈重信や大久保利通といった明治政府の要人らを後ろ盾に、国の業務を請け負うなどして飛躍してゆく。西南戦争の際には政府の軍事輸送を引き受け、巨万の富を得る。しかし、1878年(明治11年)に大久保利通が暗殺、さらにいわゆる「明治十四年の政変」で大隈重信が失脚、三菱は政界の後ろ盾を失い、政府も世論も反三菱へと動く。政府側は三井などと共に「共同運輸会社」を設立、海運業を独占していた三菱に対抗する。そのような中、1885年(明治18年)2月、彌太郎が亡くなる。享年50、胃癌だったそうだ。
彌太郎亡き後、弟の彌之助が三菱を継ぐ。消耗戦となっていた三菱と共同運輸との戦いは両者の合併という形で決着を見る。それによって1885年(明治18年)に発足するのが「日本郵船」である。彌之助は社名を「三菱社」に改名、それまで副業であった炭鉱や造船、銀行などの事業に力を注ぐ。1893年(明治26年)、三菱社は三菱合資会社に改組、彌太郎の長男、久彌が社長となる。1916年(大正5年)には彌之助の長男、小彌太が四代目社長に就任、その後、銀行部は三菱銀行へ、営業部は三菱商事へ、炭坑部と鉱山部は三菱鉱業へ、地所部は三菱地所へ、造船部は三菱造船、後の三菱重工業へと分割、軍需の拡大を背景に三菱財閥はさらに拡大していくが、やがて終戦、三菱はGHQの「財閥解体」の指令を受け入れ、「三菱財閥」は終焉を迎えるのである。
三菱財閥の創設者は土佐藩出身の岩崎彌太郎である。岩崎彌太郎は1835年(天保5年)、土佐国井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、極貧の中で幼少期を過ごした。文才に恵まれていたといい、21歳のときに学問で身を立てようと江戸に出て安積艮斎の門人となったが、ほどなく土佐に戻っている。土佐に戻ってからの彌太郎は吉田東洋や後藤象二郎らと親交を結び、藩職に就くようになる。商売の基礎を学んだのもこの頃らしい。1866年(慶応2年)には藩の開成館貨殖局に勤務、後には坂本龍馬が設立した「亀山社中」、後の「海援隊」の会計係を務めている。そして明治維新、1869年(明治2年)には岩崎彌太郎は土佐藩の開成館大阪出張所(大阪商会)の責任者に抜擢、翌年には大阪商会が私商会へと移行した「九十九商会」の監督係を任される。
藩の要職に就く身になっていた彌太郎だが、1871年(明治4年)の廃藩置県によってその地位を失ってしまう。新しい時代を迎えた中で、彌太郎は九十九商会の経営を引き受ける。後藤象二郎や板垣退助に説得されての決断だったという。彌太郎の“実業家”としての出発点である。九十九商会の主な事業は海運業で、顧客の需要をうまくつかみ、次第に業績を伸ばしてゆく。九十九商会は1872年(明治5年)に「三川商会」に、さらに翌年には「三菱商会」に改称、そして1874年(明治7年)、三菱商会は本店を東京日本橋に構え、「三菱蒸気船会社」を社名とした。彌太郎はこの時点で初めて自らを「社長」と名乗ったという。
その後の三菱商会は大隈重信や大久保利通といった明治政府の要人らを後ろ盾に、国の業務を請け負うなどして飛躍してゆく。西南戦争の際には政府の軍事輸送を引き受け、巨万の富を得る。しかし、1878年(明治11年)に大久保利通が暗殺、さらにいわゆる「明治十四年の政変」で大隈重信が失脚、三菱は政界の後ろ盾を失い、政府も世論も反三菱へと動く。政府側は三井などと共に「共同運輸会社」を設立、海運業を独占していた三菱に対抗する。そのような中、1885年(明治18年)2月、彌太郎が亡くなる。享年50、胃癌だったそうだ。
彌太郎亡き後、弟の彌之助が三菱を継ぐ。消耗戦となっていた三菱と共同運輸との戦いは両者の合併という形で決着を見る。それによって1885年(明治18年)に発足するのが「日本郵船」である。彌之助は社名を「三菱社」に改名、それまで副業であった炭鉱や造船、銀行などの事業に力を注ぐ。1893年(明治26年)、三菱社は三菱合資会社に改組、彌太郎の長男、久彌が社長となる。1916年(大正5年)には彌之助の長男、小彌太が四代目社長に就任、その後、銀行部は三菱銀行へ、営業部は三菱商事へ、炭坑部と鉱山部は三菱鉱業へ、地所部は三菱地所へ、造船部は三菱造船、後の三菱重工業へと分割、軍需の拡大を背景に三菱財閥はさらに拡大していくが、やがて終戦、三菱はGHQの「財閥解体」の指令を受け入れ、「三菱財閥」は終焉を迎えるのである。