深大寺を開いたのは満功上人(まんくうしょうにん)という人物だそうだ。かつて満功上人の父である福満が、土地の豪族の娘と恋仲になったが、娘の両親はこれを許さず、娘は湖の小島に離されてしまった。福満は深沙大王(仏教の於ける守護神、水神)に祈願し、霊亀の背に乗って島に渡り、これを知った娘の両親がついにふたりの中を認め、やがて生まれたのが満功上人であるという。満功上人は父福満の願いに従い、出家してこの地に一宇を建て、深沙大王を祀った。733年(天平5年)のことという。それが深大寺に伝わる縁起である。深大寺という名も、深沙大王に由来しているそうだ。
深大寺が開かれて百年ほど経った頃、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こす。この降伏を祈念するため、比叡山の恵亮和尚が東国に下り、深大寺を道場に定めて逆賊降伏の密教修法を行なったという。乱が平定された後、朝廷は恵亮和尚の功績を讃え、深大寺を与えた。この時、深大寺は法相宗から天台宗に改宗し、その後は東国随一の密教道場として栄えたという。
中世の頃には存亡を危ぶむほどの危機を迎えたこともあったようだが、やがて徳川の時代になると、家康によって領地が与えられ、深大寺は再び繁栄の時代を迎えた。しかし1865年(慶応元年)、深大寺は火災に見舞われ、山門と常香楼を残して焼失したという。時代が明治維新を迎える中、深大寺は再興されてゆくが、本堂が再建されたのは焼失から50年を経た1919年(大正8年)のことだったという。
深大寺が開かれて百年ほど経った頃、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こす。この降伏を祈念するため、比叡山の恵亮和尚が東国に下り、深大寺を道場に定めて逆賊降伏の密教修法を行なったという。乱が平定された後、朝廷は恵亮和尚の功績を讃え、深大寺を与えた。この時、深大寺は法相宗から天台宗に改宗し、その後は東国随一の密教道場として栄えたという。
中世の頃には存亡を危ぶむほどの危機を迎えたこともあったようだが、やがて徳川の時代になると、家康によって領地が与えられ、深大寺は再び繁栄の時代を迎えた。しかし1865年(慶応元年)、深大寺は火災に見舞われ、山門と常香楼を残して焼失したという。時代が明治維新を迎える中、深大寺は再興されてゆくが、本堂が再建されたのは焼失から50年を経た1919年(大正8年)のことだったという。