福島県会津若松市、市街中心部の東側に飯盛山という観光名所がある。白虎隊自決の地として知られ、国指定重要文化財の「さざえ堂」も人気を集める。暑さの残る九月上旬、飯盛山を訪ねた。
福島県会津若松市、JR只見線の会津若松駅から東へ2kmと少し、東に連なる山地の端に位置して飯盛山という山がある。その西側の麓部分は「白虎隊自刃の地」として知られ、国指定重要文化財の「さざえ堂」も建っており、会津若松市の観光名所のひとつに名を連ねている。
白虎隊士の墓
幕末、会津藩は藩内の軍制を改め、年齢によって分けられた部隊を組織した。主力部隊は18歳から35歳までの武家の男子によって構成された「朱雀隊」が担い、36歳から49歳までの武家の男子による「青龍隊」は国境の守備に当たった。50歳以上の男子による「玄武隊」と共に予備隊とされたのが、藩校日新館で学ぶ16歳から17歳の少年兵によって構成された「白虎隊」である。
戊辰戦争が始まり、やがて会津の地も戦場となる。いわゆる「会津戦争」である。軍備にも数にも勝る新政府軍に対して、会津軍は為す術も無く、戦況は悪化してゆく。予備隊であったはずの白虎隊もやがて実戦に投じられることになる。
1868年(慶応4年、明治元年)8月23日(新暦10月8日)、「戸ノ口原の戦い」に敗れた白虎隊二番隊20名が戸ノ口堰洞穴を通って飯盛山へ落ち延びる。飯盛山中腹の丘の上から、会津城下が見渡せた。鶴ヶ城は黒煙と炎に包まれているかに見えた。その光景を目の当たりにし、“もはやこれまで”と、白虎隊士20名は自刃の道を選ぶのである。
一般には飯盛山からの光景を見て鶴ヶ城落城と誤認し、悲観した白虎隊士が自刃に及んだとする話が広く知られているが、20名の中で唯一生き残った飯沼貞吉が晩年に語ったところによれば、彼らは鶴ヶ城が焼け落ちていないことを知っていたという。城に戻って体勢を立て直すか玉砕覚悟で敵陣に切り込むかで激論が交わされたというが、最終的には敵に捕らえられて生き恥をさらすことを潔しとしなかった彼らは自刃することを選んだのである。
これが白虎隊の悲劇として伝えられる物語の概要である。飯盛山はその物語の舞台だ。今はその時に命を絶った19名の白虎隊士の他、会津各地で散った白虎隊士31名の墓がある。武士としての在り方を貫き、郷土と主君に殉じて自ら命を絶った少年兵たちの物語は広く人々の胸を打つのか、常に墓参の人が絶えない。会津の人たちのみならず、遠方から墓参のために訪れる人もあるという。
白虎隊士の墓を「観光名所」と呼ぶのは憚られるが、会津の地を訪れたなら、ぜひ立ち寄っておかなくてはならない場所のひとつであることは間違いないだろう。白虎隊士の在り方にどのような思いを抱くかは別として、かつて日本がその歴史の中で経験した“痛み”のひとつであることは確かだ。忘れてはなるまい。
さざえ堂
白虎隊士の墓から北側へと回り込んだところには、国指定重要文化財の「さざえ堂」が建っている。「さざえ堂」は正式には「旧正宗寺三匝堂(きゅうしょうそうじさんそうどう)」という仏堂で、1796年(寛政8年)に建立されたものという。高さ約16.5mの建物は、外観も特異な形状だが、それも内部の構造によるものだ。
内部には6本の心柱と隅柱を用いて二重螺旋のスロープが造られている。螺旋で登ったスロープは頂上部分で繋がっており、片方で登り、他方を使って降りてゆく形だ。例えば、螺旋階段を思い浮かべて欲しい。あれを二重構造にして、さらに階段ではなくスロープで、木造建築として実現しているわけだ。さすがに円柱形で実現するのは難しかったのか、六角柱の形状の塔として造られている。その構造が外見にも如実に表れており、それが貝の栄螺(さざえ)を思い起こさせることから「さざえ堂」の通称が生まれたのだろう。
建物の傍らには「さざえ堂の特色」として「上りも下りも階段がない」、「1度通ったところは2度通らない」と記されている。構造が二重螺旋のスロープで、入口と出口が定められているので当然のことなのだが、その立体的な構造を直感的に理解できないと、不思議な建物だと感じられるかもしれない。ちなみに、建物内部を上って下れば三周したことになるそうで、そこから「三匝堂」の名があるという(「匝」の文字には「めぐる」、「周囲をまわる」の意味がある)。このような構造の木造建築物は世界に唯一とのことだが、確かに他に類例を知らない。これが1796年に造られたいうことに驚く。その発想にも脱帽だが、それを実現した大工の技術力にも敬服する。
「さざえ堂」内部のスロープ内側には西国札所の三十三観音像が祀られており、一度入れば巡礼を終えたことになるという。江戸時代、なかなか実際の巡礼に赴くことが難しかった庶民のための巡礼地として信仰されたようである。
厳島神社と戸ノ口堰洞穴
「さざえ堂」から北へ石段を降りると、厳島神社が祀られており、その横手には戸ノ口堰洞穴がある。戸ノ口堰洞穴からは猪苗代湖から引かれた水が流れ出て、水路へと導かれている。
厳島神社は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと、いわゆる「宗像三女神」の一柱)を祀り、昔は宗像神社と呼ばれていたという。永徳年間(1381〜1384年)、芦名直盛の時代に、石塚、石部、堂家の三家によって社殿が建立されたそうだ。芦名氏が会津の支配権を確立した頃のことだろう。1700年(元禄13年)、当時の会津藩主松平正容が御神像と土地を寄進、明治時代になって厳島神社と改称されたものという。飯盛山は別名を弁天山と呼ぶそうだが、その由来がこの神社だそうである。
厳島神社は飯盛山の鬱蒼とした樹林を背負って建っている。社殿は壮麗なものではないが、古社らしい風格を漂わせている。訪れた際には参拝しておきたい。
厳島神社の横手には戸ノ口堰洞穴がある。戸ノ口堰用水は猪苗代湖から取水し、会津若松へ通じる約31kmの用水だ。
1623年(元和9年)に八田野村(現在の会津若松市河東町八田八田野)の肝煎八田内蔵之助が、村の周囲の原野を開墾するため、藩に願い出て開削が始まったものだそうだ。当初は藩によって工事が行われたが、財政難のために中止され、それを内蔵之助が私財を投じて継続、1641年(寛永18年)にようやく八田野村まで通水したという。その後も用水は拡張されて会津若松へと導かれ、城の生活用水などに使われた。
それから200年以上が経った1832年(天保3年)、会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命、5万5千人を動員して戸ノ口堰用水の大改修を行った。この時に飯盛山に約170mのトンネルが掘られ、それまで飯盛山北西部を経由していた用水は、このトンネルによって会津若松へと通されることになる。これが戸ノ口堰洞穴、「戸ノ口原の戦い」に敗れた白虎隊二番隊20名が飯盛山へ逃げ延びる際に通ったという、あの洞穴である。
洞穴から出てきた水はいったん小さな池を成し、そこから水路に導かれて市街へと流れ出てゆく。かつて会津藩にとって極めて重要な水路だったろう。昔から人々は安定した水の確保のために費用と時間と労力を惜しまなかった。崖下に掘られた洞穴と、そこから流れ出てくる水の流れ、導かれてゆく水路の姿に、先人たちの苦労と功績を思いたい。
飯盛山そのものは入場料などは必要ないが、「さざえ堂」の内部の見学には拝観料が必要だ。
飯盛山はJR会津若松駅から東へ2kmほどのところに位置している。駅から歩けば30分ほどか。駅前から会津バスのまちなか周遊バス「あかべぇ」を利用すると便利だ。駅前から「飯盛山下」バス停まで数分で着く。まちなか周遊バス「ハイカラさん」はルートが「あかべぇ」とは反対回りで、「飯盛山下」を最後に経由するため、駅前から40分超の時間を要するので注意されたい。
飯盛山入口の交差点脇に観光客用の市営無料駐車場が用意されており、車での来訪にも不便はない。駐車場についての詳細は会津若松市公式サイトなどを参照されたい。
遠方から車で訪れる場合は磐越自動車道会津若松ICを利用するのが近い。会津若松市街に入って国道118号や県道64号を辿って行けば「飯盛山」を指し示す案内標識があるので、それに従えばいい。
飯盛山入口の交差点周辺に観光客向けの飲食店が営業している。好みの店が見つかれば利用するといい。
会津若松市街中心部に移動すればさらに多くの飲食店があり、選択肢も増える。移動するのも一案だろう。
飯盛山には「白虎隊記念館」という史料館も建っている。関心のある人は見学していくといい。
飯盛山から2〜3km南へ移動すれば
会津武家屋敷
や
御薬園
などがある。そこから西へ辿れば
鶴ヶ城
、鶴ヶ城から北へ向かえば市街中心部、
七日町通り
に並ぶ古い建物などが見所だろう。
会津若松市街の観光地巡りには会津バスのまちなか周遊バスを利用するのが便利だ。フリー乗車券を購入すれば当日は何度でも乗れる。車で会津若松市に訪れた場合も駅近くの駐車場に車を置き、まちなか周遊バスを使って市内を巡るのが気軽でお勧めだ。フリー乗車券は「会津バス駅前観光案内所」などで購入できる。詳細は会津バスのサイトを参照されたい。
車で訪れたなら、
猪苗代湖畔
へ足を延ばすのもいい。国道49号を東へ辿って、会津若松市街から30分ほどで湖畔に着く。
会津若松観光ナビ
会津武家屋敷
御薬園
鶴ヶ城
七日町通り界隈
JR只見線七日町駅
猪苗代湖と磐梯山