古い時代、東北地方は中央政権の支配の及ばない地域で、11世紀から12世紀にかけては平泉の藤原氏が権勢を誇っていた。12世紀の終わり頃、源頼朝が藤原氏を討ち、東北も鎌倉幕府の支配下となる。頼朝の御家人たちがそれぞれに東北を領有することになるわけだが、会津の地を与えられたのは佐原義連だった。佐原義連は平家追討や奥州藤原攻めの際にも頼朝を助け、軍功を挙げた武将である。
佐原氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、佐原郷(現在の横須賀市)を領していたことから佐原氏を名乗るようになった。三浦氏は北条氏や和田氏と共に鎌倉幕府を支えた有力御家人だったが、1199年(建久10年)に頼朝が死去した後、1200年代になって政権内の覇権争いが表面化、争乱へと発展する。1213年(建暦3年)には「和田合戦」によって和田一族が滅亡した。1247年(宝治元年)には執権北条氏と三浦氏との対立から「宝治合戦」が起こる。この争乱によって三浦氏宗家が滅亡するが、三浦義連の孫、盛時らは母方の繋がりから北条氏に味方し、滅亡を免れ、後に三浦氏を再興することになる。
三浦盛時の父である盛連には、盛時を含めて六人の子がいた。この六人が領地を分割して与えられ、会津を領有することになる。長男である経連は猪苗代を与えられて猪苗代氏の祖となり、次男広盛は北田、三男盛義は藤倉、六男時連は新宮をそれぞれ与えられ、北田氏、藤倉氏、新宮市の祖となる。五男盛時は三浦宗家を継ぎ三浦氏を再興する。そして佐原氏の総領となったのが四男の光盛で、黒川(現在の会津若松市中心部)を与えられ、相模の葦名郷を領有していたことから葦名氏を名乗るようになる(葦名氏を名乗るようになったのは光盛からとされているが、義連を初代とするのが一般的である)。以後、会津に於ける葦名氏の勢力は次第に拡大し、支配体制が確立されてゆく。
佐原氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、佐原郷(現在の横須賀市)を領していたことから佐原氏を名乗るようになった。三浦氏は北条氏や和田氏と共に鎌倉幕府を支えた有力御家人だったが、1199年(建久10年)に頼朝が死去した後、1200年代になって政権内の覇権争いが表面化、争乱へと発展する。1213年(建暦3年)には「和田合戦」によって和田一族が滅亡した。1247年(宝治元年)には執権北条氏と三浦氏との対立から「宝治合戦」が起こる。この争乱によって三浦氏宗家が滅亡するが、三浦義連の孫、盛時らは母方の繋がりから北条氏に味方し、滅亡を免れ、後に三浦氏を再興することになる。
三浦盛時の父である盛連には、盛時を含めて六人の子がいた。この六人が領地を分割して与えられ、会津を領有することになる。長男である経連は猪苗代を与えられて猪苗代氏の祖となり、次男広盛は北田、三男盛義は藤倉、六男時連は新宮をそれぞれ与えられ、北田氏、藤倉氏、新宮市の祖となる。五男盛時は三浦宗家を継ぎ三浦氏を再興する。そして佐原氏の総領となったのが四男の光盛で、黒川(現在の会津若松市中心部)を与えられ、相模の葦名郷を領有していたことから葦名氏を名乗るようになる(葦名氏を名乗るようになったのは光盛からとされているが、義連を初代とするのが一般的である)。以後、会津に於ける葦名氏の勢力は次第に拡大し、支配体制が確立されてゆく。