昔、葦名氏が会津に館(後の鶴ヶ城)を築いた頃のこと、喜助という村人が病に苦しんでいたところ、朝日保方という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉で介抱し、喜助の病は無事治癒したという。それからすぐに朝日保方は亡くなってしまった。喜助は朝日保方を泉の辺に手厚く葬り、祠を建てて「朝日神社」として祀り、泉を「鶴ヶ清水」と名付けた。
室町時代から戦国時代にかけての頃、会津の地は三浦氏の流れを汲む葦名氏が治めていた。室町時代の1432年(永享4年)、葦名氏第十代当主の葦名盛久が、「鶴ヶ清水」の湧く地を霊地とし、別荘を建てた。1500年代の終わり頃には葦名氏は全盛期を迎え、第十六代当主の葦名盛氏が別荘を復興する。これが現在「御薬園」として知られる庭園の創始であるという。
その後は混乱の時代を迎え、やがて葦名氏は没落、滅亡へ向かうわけだが、その中で長くこの別荘は顧みられることはなかった。それを復興、再整備を施して保養所として使ったのが会津松平氏の祖、保科正之である。ちなみに、保科正之は徳川家康の孫で、家光の異母弟に当たり、幼少期は信濃の高遠藩主保科正光の子として育てられている。名君として名高く、有名な「会津家訓十五箇条」を定めたのも正之である。