神奈川県藤沢市の中央部に位置する大庭地区は、縄文弥生の時代から人々が暮らしていた土地だそうだ。大庭地区の東側には引地川が南北に流れ、その河畔は今も長閑な田園地帯だ。その引地川の左岸、大庭地区の中央部にこんもりと木々の茂った丘がある。大庭城趾公園だ。その名が示すように、中世の山城跡を公園として整備したものという。
平安時代後期(1100年代)、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五朗景政がこの土地を開いて伊勢神宮に寄進した。大庭御厨(おおばみくりや)と呼ばれる寄進型荘園で、藤沢市西部から茅ヶ崎市、寒川町辺りまでの広い地域がその範囲だったようだ。鎌倉権五朗景政の子孫は後に大庭氏を名乗るようになり、この荘園を治めていた。大庭城は大庭景宗が居館を築いたのが始まりとされているが、他説もあってはっきりとしないようだ。1100年代の終わり頃、源頼朝が挙兵した後は、幾度かの戦を経て大庭氏の勢力は衰退、歴史の舞台からその名は消えてしまう(以前は一連の戦いの末に大庭氏は滅亡したとされていたようだが、子孫の一部は中国地方に逃れるなどして存続したようだ)。
大庭氏が相模国に於ける勢力を失って後、扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が大庭城を改修、本格的な築城を行ったという。しかし台頭してきた北条早雲によって攻められ、大庭城は落城してしまう。その後は北条氏の支配下にあり、北条氏によって改修が行われたりもしたようだが、やがて豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると大庭城も廃城となってしまった。
平安時代後期(1100年代)、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五朗景政がこの土地を開いて伊勢神宮に寄進した。大庭御厨(おおばみくりや)と呼ばれる寄進型荘園で、藤沢市西部から茅ヶ崎市、寒川町辺りまでの広い地域がその範囲だったようだ。鎌倉権五朗景政の子孫は後に大庭氏を名乗るようになり、この荘園を治めていた。大庭城は大庭景宗が居館を築いたのが始まりとされているが、他説もあってはっきりとしないようだ。1100年代の終わり頃、源頼朝が挙兵した後は、幾度かの戦を経て大庭氏の勢力は衰退、歴史の舞台からその名は消えてしまう(以前は一連の戦いの末に大庭氏は滅亡したとされていたようだが、子孫の一部は中国地方に逃れるなどして存続したようだ)。
大庭氏が相模国に於ける勢力を失って後、扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が大庭城を改修、本格的な築城を行ったという。しかし台頭してきた北条早雲によって攻められ、大庭城は落城してしまう。その後は北条氏の支配下にあり、北条氏によって改修が行われたりもしたようだが、やがて豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると大庭城も廃城となってしまった。