柳沢吉保は1658年(万治元年)、館林藩に生まれている。当時の館林藩主だった徳川綱吉に小姓として仕え、1680年(延宝8年)、綱吉が五代将軍の座につくと吉保は小納戸役となり、その後も綱吉の寵愛を受けて出世を続けていった。1698年(元禄11年)には左近衛権少将の任に就き、事実上幕府権勢を掌握するまでになる。1709年(宝永6年)、綱吉が死去、後ろ盾を無くした形の吉保は潔く役職を辞して隠棲した。1714年(正徳4年)、57歳で没している。
余談だが、「生類憐みの令」によって「犬公方」と揶揄された徳川綱吉と、その寵愛を受けて異例の出世を続けた柳沢吉保、後世になって語られる二人はあまり良い印象ではないことが多い。しかし実際には二人とも学才に優れ、政治的手腕にも長けていたようだ。柳沢吉保が綱吉の寵愛を受けたのも、吉保を信頼に足る参謀として重用したということなのだろう。
六義園は、その柳沢吉保自らが設計、造営を指揮したのだという。もともとは平坦だった土地を掘って池を造り、土を盛って山を築き、庭園の完成には7年の歳月を要したという。吉保が役職を退いて隠棲した後も庭園の造営は続いていたことになる。この土地は綱吉が吉保に下屋敷として与えたもので、綱吉もたびたび吉保の屋敷を訪ねていたらしい。