堀川運河と、その運河に架かる堀川橋は、
油津の町を象徴する存在だと言っていい。油津は現在では地方の小さな港町といった風情だが、古くから要港として開け、繁栄を謳歌した時代もあった。今でもかつての面影を随所に残し、過ぎ去った賑わいの名残を今に伝えている。堀川運河と堀川橋は、まさに油津の町が経てきた歴史の面影である。
堀川運河は、1600年代に飫肥伊東藩主祐実によって開削されたものだという。広渡川を流して運ばれた木材を
油津港へ送り込むことを目的としたものだった。運河が開削されるまで、北郷あたりの山地から産出する木材は広渡川を下って海へと出て、
梅ヶ浜の沖から尾伏のハナ(現在の大節鼻)を廻って油津の港へと曳かなくてはならなかった。潮流や強風などによって損失する木材も少なくはなく、また危険も大きく、ひどく効率の悪いものだったのだ。1683年(天和3年)の12月に始まった堀川開削の工事は、1686年(貞享3年)の春まで、およそ二年四ヶ月の期間を要した。運河の開削は当時の技術では決して楽なものではなく、特に吾平津神社下あたりの岩盤の掘削はかなりの難工事であったという。
広渡川の河口近くに水門を設け、油津の町を東西に分断して川と港を繋いだ900メートルほどの水路は、木材の積み出しの効率を飛躍的に高めた。産出する木材は「弁甲材」と呼ばれ、特に造船材の用途に適していたこともあって大きな需要を生み、その後の藩財政に大きな富をもたらすことになった。明治期になって藩による専売から自由経済の時代へと移ると、
油津港と堀川沿いは商業地域として繁栄の時代を迎える。堀川沿いには造船所や製材所、旅館や食堂や商店などが建ち並び、大いに賑わったのだという。昭和の初期には油津港は空前の「マグロ景気」に湧き、繁栄の頂点を謳歌した。しかし戦後、油津と堀川を取り巻く時代の事情は大きく変わってゆく。
「弁甲」として送り出される飫肥杉の産出が頂点を迎えたのは昭和20年代頃であったというが、その頃から次第に工場排水や家庭排水による堀川の水質汚濁が深刻化していった。「マグロ景気」は過ぎて港の繁栄も去り、造船技術の近代化に伴って造船材が木材から強化プラスチックへと移ると弁甲の需要も落ちた。堀川はその存在意義を失ってゆくように見えた。昭和40年代の終わりには悪臭対策などのために堀川支流の一部が埋め立てられ、さらに昭和50年代に入って堀川上流側の埋め立てが検討され始めた。
しかし昭和60年代になって保存を求める地元の声が高まってゆく。観光資源としての活用、市民の憩いの場としての整備などが模索された。商工会議所や市民グループによる保存運動はやがて行政を動かし、堀川は保存の方向へと向かう。現在、堀川運河とその周辺に残る古い町並みは、その歴史的価値が見直され、保存と整備、活用への道が模索されている。「油津堀川まつり」なども開催されるようになり、木材を筏に組んで舟で曳く「弁甲流し」もしばらく途絶えていたが観光用のイベントとして復活した。近年、観光地としての知名度も増したようでもあり、散策を楽しむ観光客らしき人の姿を見ることもある。開削当初の目的を終えた堀川運河は、今は観光資源としての第二の存在意義を得たようである。
堀川橋は堀川の中流域に架かる石橋で、通称を「乙姫橋」とも単に「石橋」とも言う。1899年(明治32年)に着工、1903年(明治36年)の夏に完成した。飫肥の石工であった石井文吉によるものだという。堀川の開削はその後の油津の発展に多大な効果をもたらしたが、同時に平野部から油津の町を切り離し、「陸の孤島」としてしまった。行き来するためには堀川を渡る必要があったが、堀川に架かる橋は木造のもので壊れやすかった。特に津波や火災などの災害時には堀川以西に逃げる必要があり、堅牢な石橋が切望されていたのだ。
石橋の建設に当たっては、橋下の堀川を船の運航ができるようにアーチを高くする必要があったため、両岸の道路を約3mかさ上げしたのだという。道路より低い位置に建ち、道路に面した二階が玄関となっている家もあるのはそのためである。その家々の景観もまた堀川運河の独特の興趣を生み出していると言っていい。
堀川の川面に映る石組みのアーチは美しく、当時の名石工の仕事ぶりを偲ばせる。完成以来百年余、堀川橋は風雨にも耐えてどっしりと腰を下ろしてきたが、さすがに経年による劣化などもあり、2016年(平成28年)から2017年(平成29年)にかけて橋梁と周辺の整備工事が行われた。欄干の改修も行われたが、新しい欄干も雅趣に富んだ意匠で古い石橋に似合っている。堀川橋は1999年(平成11年)に文化庁の有形文化財にも登録されている。堀川の象徴であるのみならず、油津の町の象徴だと言えるだろう。
堀川橋の南東側に広がる町並みが、かつて繁栄を謳歌した
油津の町だ。狭い路地が縦横に入り組む町中には今も古い時代を彷彿とさせる建物が残り、堀川橋と同様に文化庁の登録有形文化財となっているものもある。堀川橋の周辺から油津の町、さらに
油津港へと、古き佳き時代に想いを馳せながらひととき散策を楽しみたい。
堀川の上流側(北側)、東の春日町と西の園田を繋いで見法寺橋が架かっている。見法寺橋は東の春日町を南北に抜ける国道220号にぶつかる形で丁字路を成している。この交差点から国道220号を少し南へ行くと「見法寺」という名のバス停もある。かつて春日町に見法寺という寺があったという。明治初期の廃仏毀釈によって失われ、そのまま再興されることもなかったらしい。今ではこうして橋の名やバス停の名として残っているのみだ。この見法寺橋から下流側(南側)にかけて、堀川運河の河岸には遊歩道などが整備されている。見法寺橋の袂には駐車場も設けられ、観光に訪れる人たちを迎えている。
見法寺橋の少し下流側、堀川運河の本川から西へ支川が延びている。この支川に、夢見橋という人道橋が架かっている。夢見橋は屋根付きの木造で、2007年(平成19年)の夏に完成したものだ。地場産の飫肥杉と飫肥石を用い、釘やボルトなどの金物を使わない、「木組み」という伝統工法で造られたという。夢見橋は実用的な目的はあまりなく、観光用として、堀川運河の新たなシンボルとして造られたものだ。橋の途中にはベンチも設けられており、夏の強い日差しを避けてベンチで一休みする人の姿を見ることもある。夢見橋の南側には緑地公園が設けられており、堀川運河を眼前に眺めながら、開放感溢れる中でのんびりと散策を楽しむことができる。油津の観光に訪れたときには、堀川運河の河岸に新たに創出された魅力を堪能してみるのもお勧めだ。
見法寺橋から上流側で堀川運河は大きく西へ屈曲している。西へ回り込んだところに、花峯橋という古い木造の橋が架かっている。「花峯通線」という市道が通っているが、老朽化のために車両の通行が禁止されている。木製の欄干が郷愁を誘うような風情を醸し出し、のどかな空気を纏って横たわっている。橋の上から眺める堀川運河の風景ものんびりとしている。
花峯橋を渡って堀川運河の東側へと「花峯通線」を辿ると、やがて堀川運河と広渡川とを繋ぐ水門に至る。花峯橋から水門までの堀川河岸は、かつて弁甲材の貯木場であったというが、今ではわずかにその名残りが感じられるだけだ。堀川運河と水門とを繋ぐ水路は狭く、運河の支線のような佇まいだ。その運河に水門橋が架かっている。水門の傍らの広渡川河岸から川面近くへ降りてゆくことができる。川原近くの石垣の堤防に降りると、背後に水門を見て、正面には広渡川河口の風景を見る。河口に架かる橋の向こうには海が見える。広々としてゆったりとした風景だ。あまり観光客の訪れる場所ではないが、穏やかな風景を眺めながら、運河が開削された当時に思いを馳せてみるのも楽しい。
かつて弁甲流しで賑わった堀川も、今では筏の姿もなく、ときおり静かな川面を揺らして船が行き過ぎてゆく。石橋に立って堀川を眺めていると、弁甲の積み出しで賑わっていた時代の人々のさんざめきが、どこからか聞こえてくるような気もしてくる。1935年(昭和10年)に「マグロ景気」に湧く油津を訪れた野口雨情は、「水と筏を堀川橋の石の手すりは見て暮らす」と詠んだ。その頃の「石の手すり」もすでになく、石橋は今も静かに時代の変遷を見つめ続けている。