飫肥の町の北方、町並みを見下ろす丘の上に、飫肥城があった。明治の廃藩置県の際に城の建物は壊されてしまったが、昭和50年代になって大手門などが復元され、往時から残る石垣などとともにかつての面影を今に伝えている。
飫肥城は古く平安の時代の飫肥院の跡とも言われ、一説には南北朝時代の築城ともいうが、築城の年代ははっきりとはせず、誰による築城かも確かなことはわかっていない。中世になると、日向の国は伊東氏と島津氏の争いの舞台となった。伊東氏は伊豆伊東に興った工藤祐経の子孫で、日向中部以北を支配していたが、この伊東氏がやがて南部への勢力を伸ばすに至って、九州全域の制覇を目指す薩摩の島津氏と対立した。特に飫肥は外洋との接点ともなる油津の港を抱えた要衝の地であり、飫肥城の支配を巡って両氏は激しい争いを重ねることになった。
1400年代の終わり頃、島津方は飫肥に新納忠続を置いていたが、日向南部の覇権を巡って島津方に内乱が起きたのに乗じて、伊東祐国が飫肥に出陣した。1484年(文明16年)のことだった。しかし島津方の反撃は激しく、祐国自身も討ち死に、伊東方は多数の犠牲者を出して大敗した。この後、伊東、島津両陣営ともにさまざまに勢力図を塗り替えながら、飫肥を巡る攻防が続く。やがて1500年代半ばになって祐国の孫である祐清(後の義祐)が家督を継ぐ頃には伊東氏の勢力も拡大、伊東氏と島津氏の合戦も激しさを増した。多数の犠牲者を出しての壮絶な戦いであったという。飫肥への攻勢をかける伊東氏の前に、島津忠親はついに飫肥を明け渡し、義祐の次男祐兵が飫肥入城を果たす。
しかし戦いは終わらなかった。島津の家督を継いだ義久が反撃を開始、加久藤に攻め入った伊東氏と合戦になった。1572年(元亀3年)の、このいわゆる「木崎原の合戦」に伊東氏は大敗する。さらに島津氏は高原城を奪い、野尻城を手中にして伊東氏を攻めた。勢いに乗る島津氏に対抗する術もなく、1576年(天正4年)の高原合戦の以後、飫肥も島津氏の領有となった。そしてついに1578年(天正6年)、伊東義祐と祐兵らは豊後の大伴氏のもとへ逃げ延びてゆく。これによって飫肥を巡る伊東氏と島津氏との攻防もいったん幕を下ろすことになった。
1578年(天正6年)の耳川合戦で大伴氏を打ち破った島津氏は、その後急速に九州全域の制覇へと向かう。しかしそれも長くは続かない。この頃、歴史は大きく動いていた。1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起き、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は織田信長の後継者として天下統一の覇者となりつつあった。秀吉は南九州の平定を目指して調停案を示すが、島津はこれを一蹴、各地への侵攻を続けた。これに対して秀吉はついに島津討伐軍を派兵する。「島津征伐」である。豊臣の大軍の前には島津と言えども対抗できず退却、豊臣秀長の追撃を受けた島津軍は、1587年(天正15年)、ついに豊臣軍に降伏することになる。
南九州を鎮圧した秀吉は1588年(天正16年)、南九州の国割を行う。これによって伊東祐兵は飫肥の地を拝領する。現在の日南市から北は宮崎市南部に及ぶ範囲に相当する。伊東祐兵が飫肥の地を追われて十年余を経て後のことだった。この後、伊東氏は豊臣から徳川へと移る時代の変遷もうまくくぐり抜け、以来、明治維新に至るまでの約280年間、14代に渡る泰平の時代を迎えることになった。
中世の飫肥城はいくつもの出城を持つ壮大な城であったという。いわゆる「平山城」の形だが、地形をうまく利用した堅固な城であったらしく、島津氏と伊東氏との戦いの際にも「落城」したことは一度もないのだという。現在の飫肥城址にそうした中世の島津氏と伊東氏との凄絶な争いの跡を見つけることは難しい。中世の勢力争いの中心となった飫肥城も、やがて平和な時代の中、伊東氏のもとで近世の城として変貌してゆく。何度かの地震にも見舞われ、その度に石垣や建物は崩壊、現在に残る城址の形となったのは1693年(元禄6年)のことという。
明治の廃藩置県に伴って、1871年(明治4年)に飫肥城の楼閣は取り壊されてしまったが、石垣や周囲に連なる武家屋敷の佇まいは残った。その文化的価値が認められ、文化庁(現 文部科学省)の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されるのが1977年(昭和52年)のことだ。1975年(昭和50年)に改正された「文化財保護法」に基づき、日本各地に残る歴史的な集落や町並みなどを自治体が「伝統的建造物群保存地区」と定め、その中でも特に価値の高いものを自治体の申し出に基づいて文部大臣が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定する。
飫肥は地方に残る小規模の城下町としての価値が認められ、九州で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」となった。宮崎県内の「重要伝統的建造物群保存地区」としては、他に美々津の港町や椎葉の山村集落がある。
飫肥の町並みの保存と観光資源としての活用に対して、日南市も当時の日南市長である河野礼三郎氏を会長とする飫肥城復元促進協力会を組織するなどして積極的に取り組んだ。1978年(昭和53年)には大手門も復元され、翌1979年(昭和54年)には松尾の丸も復元されて、一般公開に至っている。これらの建物は当時の城郭研究者の第一人者として知られた東京工業大学教授の藤岡通夫博士(故人)による時代考証、設計、監修のもとに復元されたという。かつての飫肥城も有名な飫肥杉を用いて建築されたということだが、この復元建築物にも飫肥杉がふんだんに使用されている。復元された大手門の姿も今では広く知られるようになり、
飫肥は「九州の小京都」として県外からも観光客を集めるようになった。
飫肥城址を訪れて最初に出迎えてくれるのが大手門だ。大手門は観光パンフレットなどにも多く登場し、その姿に見覚えのある人も多いだろう。この大手門は飫肥城復元事業第二期工事として1978年(昭和53年)に完成したもので、木造渡櫓二階建て、高さは12メートルを超える。柱や梁に用いられた木材は飫肥営林署から提供された樹齢百年以上の飫肥杉で、釘を用いない工法によって建造されているという。木立の緑の中に建つその姿は堂々として凛々しく、漆喰の白も美しく、まさに城下町飫肥の象徴と言ってよいかもしれない。
大手門から城址へと足を踏み入れると、時を逆行したかのような錯覚さえ覚える。苔むす石垣と緑の木々に囲まれた一角は凛とした空気を湛えて往時の息づかいを今に伝えている。回り込んで石段を登ると美しい白壁の飫肥城歴史資料館がある。1978年(昭和53年)の夏に開館したもので、甲冑や古文書といった伊東藩に関わるさまざまな資料を展示している。歴史資料館の前を過ぎて奧へ進むと、木立に囲まれた小高い場所に松尾の丸がある。旧松尾の丸跡に江戸時代初期の御殿を復元したものだ。飫肥杉を使用して建築されたという建物は、慎重な時代考証のもと、細部まで見事に再現され、往時の藩主の暮らしぶりを鮮やかによみがえらせてくれるようでもある。
松尾の丸から飫肥小学校を右手に見ながらさらに奧へと進むと、石垣に囲まれて一段高くなった場所がある。初期の本丸跡で、ここにかつては本丸御殿があった。1600年代後半に相次いだ地震によって本丸御殿も被災、被害からの復旧の際に本丸御殿は現在の飫肥小学校グラウンドの場所へ移されたという。江戸時代になって泰平の世となると要塞のような城である必要も無くなり、藩主の館の立地も改められたのだろう。本丸跡は今は林となり、時の流れを封じ込めているようにも感じられる。奥まったところにあるために昔はほとんど観光客の姿がなかった一角だが、2004年9月末から2005年3月末まで放送されたNHK連続テレビ小説「わかば」で主人公の若葉が心を癒す場所として印象的に劇中に登場し、以来、飫肥城址の見所のひとつとして知られるようになった。ドラマの放映中はこの杉林を目指して訪れる観光客も少なくなかったという。
大手門の前から東に辿れば、武家屋敷通りとして知られる横馬場通りが伸びる。大手門から南へ延びる通りは大手門通りで、鯉の遊泳で知られる後町通りやバス通りである本町通り、さらに前鶴通りなどと交差しつつ、やがて酒谷川を越える。飫肥城址周辺から横馬場通り一帯、大手門通り周辺、後町通り周辺、前鶴通り周辺が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された地域で、苔むす石垣や武家門などの並ぶ様子が風雅な佇まいを見せる。
飫肥城址の飫肥城歴史資料館と松尾の丸は入館料が必要だが、周辺の豫章館、小村記念館などとの共通券となっている。訪れた際にはこの共通券を購入し、案内のパンフレットなども入手して、飫肥城址と
飫肥城下町の散策をのんびりと楽しみたい。春の桜の頃や新緑の頃が美しいが、夏の日差しの中の佇まいも南国的で風情がある。冬に訪ねてこの地方独特の正月飾りなどを見てみるのも一興かもしれない。