JR日南線飫肥駅の南西側は木々の茂った丘になっている。丘の北東の端には県立日南高校が建っており、高校の西側は「竹香園」という公園になっている。「竹香園」は明治期の飫肥出身の貴族院議員、高橋源次郎の所有地だったところを公園として整備したものだ。かつて高橋源次郎の別荘や農地として使われていたものらしいが、1951年(昭和26年)にご遺族から日南市へ寄贈され、日南市はグラウンドなどを整備して1957年(昭和32年)に4.7haの面積を有する総合公園「竹香園」として使用を開始した。「竹香園」は丘の上に広がる樹林地とその中を巡る散策路、グラウンド、丘の麓の日本庭園などから構成されており、春の桜の名所としてもよく知られている。「竹香園」は「ちくこうえん」と読むのが正しいのだろうが、地元では「ちっこうえん」と呼ぶのが通常だ。
JR日南線飫肥駅から線路の横の小径を北東側へと辿り、小さな踏切を渡ると、道の右手にひっそりと日本庭園が横たわっている。日本庭園の横はちょっとした広場になっている。この辺りがかつて高橋源次郎の別荘が建っていたところという。
この区域は背後の崖の崩落の危険などもあって長年草木が茂るままに放置されていたのだが、「歴史・文化風致的景観の向上を図る」ために1997年度(平成9年度)から改修整備を進め、2002年(平成14年)春に工事が完了したものだ。改修には三億円近い総事業費を費やしている。復元された日本庭園は池を配した回遊式の桃山式庭園で、池には出島が設けられ、飫肥杉で造られた四阿や門などが置かれている。それほど規模の大きな庭園ではないが純日本風の落ち着いた佇まいの庭園は穏やかな空気を湛えており、散策路を辿ってくつろいだひとときを過ごすことができる。
庭園横手の広場の隅には「竹香園記の碑」が建っている。高橋源次郎が1908年(明治41年)に建てたものという。碑には「竹香園」の名の由来が書かれており、傍らに立てられた解説板にその全文が転記されている。「竹香園」の名は東宮侍講本居豊穎の起草によるものという。本居豊穎(もとおりとよかい)は明治期の国学者で、「古今集講義」などの著書が知られている。
日本庭園の前の道を東へ進むと北側から上がってくる坂道に出る。坂道を南の丘へと上がると、上がりきった左手が県立日南高校の正門だ。高校の門に背を向けるように西側へ折れる道へ入り込んでゆくと、その左手、南側にグラウンドが横たわっている。グラウンドは普段は日南高校の第二グラウンドのように使用されているのではないだろうか。少なくとも昔はそうだった。数十年前、この「竹香園」のグラウンドで日南高校の体育大会が行われていた時代もあった。学校の運動会というものが地域全体のイベントとして賑わっていた頃のことだ。露店などが並び、お祭りのような賑わいだったことを幼心に憶えている。夏の盛り、日南高校は夏休みだ。グラウンドでは高校の野球部らしい男の子たちが練習に励んでいた。
日南高校正門前から西へ入り込んだ道脇には大きなクスノキが枝を広げている。傍らには「郷土の名木」を示す標識が建てられている。標識には「竹香園樹林」とあり、「樹木の種類」は「クスノキ等」、本数は「3」となっている。指定番号は第2号で、1997年(平成9年)に指定されたものという。こんもりとしたクスノキの樹形が夏空によく似合う。
そのクスノキの横を抜けてグラウンドの向こう側へと回りこむように進んでゆくと、丘の麓に銅像が建っている。
飫肥出身の明治期の外交官、小村寿太郎の像である。小村寿太郎は飫肥の町に生まれ、幼少期には振徳堂で学んだ。1901年(明治34年)に桂内閣の外務大臣に就任、1905年(明治38年)には全権大使としてポーツマスに於ける日露講和条約調印の任にあたった功績などがよく知られている。
飫肥の町には小村寿太郎生誕の地や彼の功績などを紹介する「小村記念館」などがある。興味のある人は立ち寄ってみるといい。
「竹香園」は日南市屈指の桜の名所として知られ、春には「竹香園櫻まつり」が開催されて賑わう。しかし他の季節には訪れる人もあまりなく、夏の盛りには強い陽射しが降り注ぐ中にただ蝉の声が響くばかりだ。「竹香園」はその生い立ちから言っても市民の憩いの場としての公園であり、観光地的性格は薄い。観光で
飫肥を訪れた人に強くお勧めできるような「名所」とは言い難いが、
飫肥の町の散策の際に少し足を延ばし、「竹香園」の日本庭園や木々の茂る小径を歩いてみるのも悪くないかもしれない。