堀切峠から南へ、左に海を見ながら下り坂を降りてゆくと、トンネルを抜けて小さな町にさしかかる。内海の町だ。「内海」は「うちうみ」と読む。「うつみ」ではない。内海川と大丸川とが合流する河口部が深く入り込んだ入江を成し、その地形の特徴からこの名がある。河口部の入江はそのまま天然の良港となり、その港を囲むように町並みが広がっている。
内海の港は今では小さな漁港に過ぎないが、古くから要衝の港として栄えた。戦国時代には伊東氏と島津氏がその覇権を争い、大陸との交易の拠点となった時代もあった。江戸時代には上方との交易が盛んになり、人々の出入りも多かったという。内海は鵜戸参りへ向かう、通称「鵜戸街道」の起点となったところでもあるという。内海から南へ、峠を越えて浦へと繋ぎ、さらに次の峠へ、そしてまた次の浦へと辿って人々は鵜戸を目指した。内海、小内海、鶯巣峠、鶯巣浦、伊比井峠、伊比井浦、馬ノ峠、鍋越峠、冨土浦、瀬平峠、小目井浦、中津隈峠、宮浦、鳥帽子峠と続く浦々と峠は「日向七浦七峠」と呼ばれた。厳しい道程だったという。
明治末期から大正にかけて、内海が宮崎市の海の玄関としての役割を担った時期もあった。1911年(明治44年)に第13代宮崎県知事に就任した有吉忠一は細島、内海、油津の三港を宮崎県に於ける重要港湾として改修に着手、折しも飫肥と油津とを結ぶ県営軽便鉄道と、民間事業による内海と大淀駅(現在の南宮崎駅)とを結ぶ宮崎軽便鉄道が1913年(大正2年)に開通、港湾と鉄道による物流の整備が行われた。内海港は宮崎市に近い港湾として利用され、1923年(大正12年)に日豊本線が全線開通して物流の主役が鉄路に移るまでの間、客船なども入港して、宮崎市の物流の拠点として賑わった。そしてまた県南とを繋ぐ海路の拠点としても利用され、日南市の外ノ浦港と内海港を結ぶ定期航路の船便もあったという。