明治維新後は明治新政府でも陸軍大将などの役職を担い、岩倉使節団の外遊中には政府を主導した西郷隆盛だったが、朝鮮との国交回復問題を巡って政府内で対立、1873年(明治6年)、職を辞して野に下ることになる。薩摩に戻った西郷は私学を開き、若者たちの教育に注力するが、この私学はやがて鹿児島に於ける大きな勢力になってゆく。
1876年(明治9年)になって各地で明治政府の政策に不平を抱く士族たちによる反乱が頻発する。熊本では「神風連の乱」が、福岡では「秋月の乱」、さらに山口でも「萩の乱」が相次いで起こる。その中で薩摩の西郷は静観を保っていた。
しかし、明治政府による弾薬の搬出、いわゆる「弾薬略奪事件」が起き、血気に逸った私学の若者たちが陸軍の火薬庫を襲撃するに至って事態は新たな局面を迎える。政府による西郷隆盛暗殺も噂される中、西郷は「おはんらにやった命」と、若者らの思いに応える形でついに決起を決意、1877年(明治10年)2月、西郷に率いられた薩摩軍は東京へ向かって進軍を開始する。対して政府軍も薩摩軍を逆徒として征討を決定する。「西南戦争(西南の役)」の始まりである。
戦いは苛烈を極めた。薩軍は政府軍の守る熊本城を攻めるが名城は落ちず、激戦となった「田原坂の戦い」でも敗戦を強いられ、政府軍の近代兵器の前に薩軍は劣勢、退却を余儀なくされる。数ヶ月続いた戦闘も最終局面を迎えた8月、日向の長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町)で西郷は軍を解散、残った兵と共に鹿児島へ戻る。鹿児島に戻った薩軍は城山に陣を張り、その周囲を政府軍が取り囲んだ。
そして9月24日、政府軍の総攻撃が開始される中、西郷が籠もっていた洞窟前に薩軍の将氏40名余が整列、そして薩軍340余名は岩崎口へと突撃する。薩軍の兵士たちは次々に政府軍の銃弾に倒れ、西郷自身も2発を被弾する。洞窟から600mほど進んだところで西郷も覚悟を決める。「晋どん、もうここらでよか」と、同行していた別府晋介に言うと、襟を正して東を向いて座り、深く遙拝したという。別府晋介の介錯の刃が振り下ろされ、別府もまた自刃に果てた。西郷隆盛、満49歳の波乱に満ちた生涯だった。
政府軍総司令の山県有朋中将は「まことの天下の豪傑」と西郷を評し、このような事態に至った時代の流れを惜しんだ。西南戦争に於ける戦死者は政府軍6,400余名、薩軍は6,800余名を数える。鹿児島市街北部の祇園之洲には政府軍将校1270余人が葬られ、今は公園の一角に「西南戦争官軍戦没者慰霊塔」が建っている。西郷をはじめとする薩軍将兵2023名が、今は南洲墓地に眠る。1879年(明治12年)に設けられた参拝所は、1922年(1922年)に南洲神社となって西郷を祀っている。南洲墓地は小高い丘にある。丘の端から桜島がよく見える。