「中央公民館前」交差点から鹿児島市立美術館、鹿児島県立図書館の横を過ぎて400メートルほど進むと、鶴丸城趾だ。
鶴丸城は1602年(慶長7年)に島津家第十八代当主の家久が築城を始め、1604年(慶長9年)に完成したものという。築城当時は城山にあった上山(うえやま)城と一体化した城として考えられていたらしいが、1615年(元和元年)、江戸幕府による一国一城令によって上山城は廃止されたという。鶴丸城は本丸と二の丸から構成され、石垣や堀は備えていたものの、「人をもって城となす」という方針から、天守閣を持たない屋形作りの城だったそうだ。
「鶴丸城」というのは一般的な通称で、正式には「鹿児島城」という。城の建物の屋根の形が翼を広げた鶴に似ていたというので「鶴丸城」と呼ばれるようになったとも言うが、1843年(天保14年)に編纂された「三国名勝図会」に、現在の城山が当時は鶴丸山と呼ばれており、“山の形が舞鶴に似ていることから鶴丸山と呼ばれるようになった”という旨のことが記されているという。素人の推測だが、鶴丸山の呼称に因んで翼を広げた鶴に似せた形状の建物が建てられたのかもしれない。
築城以来、明治維新を迎えるまでの270年余、鶴丸城は薩摩藩七十七万石、島津氏の居城だった。その間、幾度も災害などによって倒壊、焼失を繰り返し、その度に修復、改修が行われて明治を迎えるのだが、1873年(明治6年)、火災によって本丸が焼失、さらに1877年(明治10年)、西南戦争によって二の丸が焼失、その後は再建されることなく、城の建物は現存しない。今は通りに面して残る石垣や堀、石橋などの姿に往時の様子を偲ぶことができるだけだ。
2020年(令和2年)、1873年(明治6年)に焼失した「御楼門」の復元が完成した。高さ、幅ともに20m、国内最大の城門であるという。