鹿児島市の仙巌園は万治元年に島津光久によって別邸として築かれたものだ。幕末から明治初期には近代化の舞台にもなり、賓客を迎える場としても使われた。残暑の八月、仙巌園を訪ねた。
仙巌園
仙巌園
仙巌園
島津家第十八代当主の家久が鶴ヶ城を築いて居城としてから数十年、1658年(万治元年)に第十九代当主であり、第二代薩摩藩主である島津光久が家老鎌田出雲守の旧宅であった大磯下津浜門屋敷に御仮屋を築いた。中国江西省の景勝地、龍虎山仙巌に景観が似ていることから「仙巌園」と名付けられたという。その後、仙巌園は代々の薩摩藩主に受け継がれ、島津家別邸として使われてきた。

幕末以降、仙巌園は賓客をもてなる場としても使われ、幕末にはオランダ海軍将校やイギリス公使パークス、あるいは勝海舟が、明治期以降には日本の皇族を始め、1891年(明治24年)にロシア皇太子ニコライ2世が、1922年(大正11年)にはイギリス皇太子エドワード8世が仙巌園を訪れている。そしてまた、隣接する(現在の)尚古集成館一帯は幕末から明治期にかけて島津齊彬らによって推し進められた近代化の礎となる工場群が築かれたところとしても知られる。

明治期には島津忠義公爵が住まいとして使い、その後住人不在の時期も経て、戦後1949年(昭和24年)からは鹿児島市の管理下にあったが、1957年(昭和32年)に島津家に返還され、鹿児島を代表する名所のひとつとして人気を集め、現在に至っている。仙巌園は「仙巌園 附 花倉御仮屋庭園(せんがんえん つけたり けくらおかりやていえん)」として1958年(昭和33年)に国の名勝の指定を受けている。
仙巌園
仙巌園
今は「仙巌園」として案内されるこの施設は、通称として付記されているように、かつては「磯庭園」の名で知られていた。鹿児島市北部の錦江湾岸部を「磯地区」と通称するから、推測だが“磯地区にある庭園”の意味で「磯庭園」と呼ばれるようになったものかもしれない。1957年(昭和32年)に鹿児島市から島津家に返還された後は株式会社島津興業が、1962年(昭和37年)からは新たに設立された島津観光株式会社が「磯庭園」の運営を担ってきた。1959年(昭和34年)には磯庭園北側山頂の磯山遊園地と磯庭園と磯山遊園地とを繋ぐロープウェイが開設され、磯庭園と磯山遊園地、隣接する尚古集成館などが一体化した行楽地として整備され、人気を集めたようだ。磯山遊園地には小動物園やゴーカート場なども設けられていたそうだ。時代は高度経済成長期、磯庭園一帯は常に数多くの行楽客、観光客で賑わった。1958年(昭和33年)には約33万人だった入園者数は1966年(昭和41年)には100万人を超えたという。その60パーセントほどが団体客だったらしく、磯庭園と磯山遊園地は鹿児島の観光の一翼を担う存在だったようだ。
仙巌園
仙巌園
仙巌園
仙巌園
1993年(平成5年)8月、鹿児島を集中豪雨が襲う。8月1日には姶良地域が、8月6日には鹿児島市中心部が豪雨に見舞われた。8月6日の豪雨では市街中心部で河川が氾濫し、浸水被害が発生、市電は運休を強いられ、甲突川の石橋のうち二つが流失した。竜ヶ水地域では大規模な土石流も発生して被害をもたらした。世に言う「8.6水害(8.6豪雨)」である。この豪雨の際に磯山遊園地のロープウェイも安全のために運休したのだが、結局そのまま再開されることはなく、磯山遊園地も閉園となってしまった。かつて人気を集めた行楽地が集客力の鈍化と老朽化の問題に直面し、そこへ自然災害が追い打ちをかけて閉園に至るという例は各地に散見されるが、ここもそうしたもののひとつだったのだろう。

同じ1993年(平成5年)、株式会社島津興業と島津観光株式会社など、関連五社が合併、新しい株式会社島津興業が発足する。磯庭園は島津興業の運営へと引き継がれ、リニューアル工事が行われる。1997年(平成9年)、磯庭園のリニューアルが完了、それに伴い、「磯庭園」の呼称が国指定名勝と同一の「仙巌園」に統一されることになる。2005年(平成17年)には尚古集成館本館もリニューアルされる。かつての「磯庭園」は、こうして現在の「仙巌園」へと再出発した。「仙巌園」は入場料金の必要な庭園部分と、西側に隣接する尚古集成館(入館には料金は必要)や薩摩切子工場なども含めて一体化した施設として成立していると言っていい。現代的にリニューアルされた「仙巌園」は、今も鹿児島を代表する“名所”のひとつだ。
仙巌園
仙巌園
仙巌園は桜島と錦江湾を借景として築山と泉水に見立てて築庭されたという、雄大な景観の庭園である。敷地面積は約5ha、圧倒的な広さを誇るというわけではないが、錦江湾に面した立地が広々とした印象を与える。中央部には御殿が建ち、その南側、すなわち海岸側に庭園が広がる。御殿の東側には保津川が流れ、その東側にも「曲水の庭」などが設けられている。かつての正門は御殿の南側にあるが、現在の庭園入口は西端部に設けられ、入口から庭園中央部へ至る園路脇には土産物店やレストランなどが並んでいる。庭園入口付近には反射炉跡も残され、かつてこの周辺が薩摩の近代化の舞台だったことを物語る。山を背負った園内は緑に溢れ、ゆったりと園内を巡るのは楽しいひとときだ。江戸時代の面影を残すものから明治期に造られた近代設備まで、園内にはさまざまな見所が点在し、それぞれに解説パネルが設けられているのが嬉しい。
仙巌園
仙巌園
園内はわずかに起伏を伴い、場所によっては桜島と庭園とが織り成す景色を楽しむことができる。仙巌園を訪れたなら、やはりその景観を楽しんでおかなくてはいけない。現在は仙巌園と海岸との間に国道10号とJR日豊本線の線路が横たわり、さらに海岸部には防潮堤も築かれているから、少しばかり往時の風情を欠いているが、それでも桜島を背景にした庭園の景観の素晴らしさは特筆すべきものと言っていい。今回訪れたとき(2014年8月)には残念ながら天候に恵まれず、桜島は白く霞み、ときおり頂上が雲に隠れていたが、それはそれでひとつの興趣かもしれない。快晴に恵まれた午後に来園すれば、順光を受けて浮かぶ桜島と庭園とが織り成す美しい景観を楽しむことができるだろう。園内に建つレストランからも錦江湾と桜島の景色を楽しむことができるから、窓外の眺めを楽しみながら食事やお茶のひとときを過ごすのもお勧めだ。
仙巌園
仙巌園
2008年(平成20年)に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」では、この仙巌園でもロケが行われたという。正門は劇中の薩摩藩江戸屋敷に見立てて使用され、「曲水の庭」近くの石段や「江南竹林」前では瑛太演じる若き日の小松帯刀が鹿児島城下を歩くシーンが、また「筆塚」の周辺では宮崎あおい演じる篤姫が江戸へ向かう籠行列のシーンなどが撮影されたそうだ。そうしたロケの現場にはドラマのワンシーンを捉えた写真を添えた解説パネルが設置されている。それらのロケ地に身を置き、ドラマのワンシーンを思い出してみるのも楽しい。
反射炉跡
アヘン戦争(1840〜42年)で清がイギリスに敗れたことに衝撃を受けた島津齊彬は日本が西欧諸国に対抗するためには軍備の近代化と近代産業の育成が必須であるとの考えに至り、1851年(嘉永4年)に第十一代薩摩藩藩主になった後、この磯地区に「集成館」と呼ばれる近代工場群を建設する。その工場群の象徴とも言えるのが、鉄製大砲を鋳造するために造られた反射炉だ。

反射炉とは金属を溶かすための炉の一種で、この時代、鉄を溶かすための炉として使われた。燃料を燃やした熱を壁に反射させて炉床の銑鉄を溶かす構造で、通常は燃料として石炭が用いられたが、薩摩の反射炉では石炭の入手が困難だったために木炭(白炭)が用いられたという。

反射炉は1852年(嘉永5年)に着工、1856年(安政3年)には鉄製大砲の鋳造に成功した。1863年(文久3年)に起きた薩英戦争では、ここで造られた2門の150ポンド砲が使用されたという。反射炉跡の傍らには当時鋳造されたという鉄製150ポンド砲のレプリカが展示されている。砲身長4.56m、砲重量8.3トン、砲弾重量150ポンド(約68kg)、最大飛距離3000mだそうだ。併せて見学しておきたい。

現在、反射炉跡は石垣に囲まれた敷地にまさに遺構として基礎部分が残る。1857年(安政4年)に完成した2基目の反射炉の基礎部分であるらしい。遺構はすぐ近くから見学することが可能で、反射炉の構造などについての説明パネルが設置されているのも嬉しい。反射炉の基礎部分を見学し、ここに反射炉本体が建っていた頃の光景を思い浮かべてみるのも一興だろう。薩摩の、ひいては日本の近代化の一端を担った施設の遺構だ。訪れたときにはぜひ見ておきたい。
仙巌園/反射炉跡
仙巌園/反射炉跡
仙巌園/反射炉跡
仙巌園/鉄製150ポンド砲レプリカ
御殿
代々の薩摩藩主は城山の麓にある鶴丸城を居城としていたが、明治の時代となって1873年(明治6年)には政府から廃城令が出され、奇しくも同じ年、鶴丸城本丸は火災によって焼失、1877年(明治10年)には西南戦争によって二の丸も焼失し、以後再建されることはなかった。仙巌園はそもそもは薩摩藩主の別邸として建てられたものだが、明治期には島津家本邸として使われることになる。

島津齊彬の跡を継いで島津家第二十九代当主となった島津忠義(忠義は齊彬の甥、齊彬の遺言によって島津家を継いだ)は明治維新の後は公爵となって東京に暮らしていたが1888年(明治21年)に帰郷、以後、仙巌園の御殿を本邸としてここに住まった。忠義は1897年(明治30年)に死去、家督を継いで公爵となった第三十代当主忠重は東京へ移住し、その後は長く住人不在だったという。1947年(昭和22年)に華族制度が廃止されると、それに伴い仙巌園は1949年(昭和24年)から鹿児島市の管理下に置かれたが、1957年(昭和32年)に島津家へ返還、以後は鹿児島の観光名所としての道を歩むことになる。

現在残る御殿だけでも見事なものだが、これでも往時の三分の一ほどなのだという。忠義の本邸として使われていた頃には当主である忠義の部屋、跡継ぎである忠重の部屋は他と明確に区別され、風呂場なども当主専用のものが造られていたそうである。外部からその姿を見学するだけでも見応え充分だが、興味があれば内部も見学するといい。別料金を支払ってガイドツアーに参加すれば内部の見学が可能で、着物姿のガイドが案内してくれるそうだ。見学の後には抹茶と島津家ゆかりの茶菓子「飛龍頭(ひりゅうず)」をいただけるとのことである。
仙巌園/御殿
仙巌園/御殿
仙巌園/御殿
仙巌園/御殿
正門
御殿の南側、国道10号に面して正門が残されている。この正門は1895年(明治28年)に建てられたものだそうだ。薬医門の形式で、建材には裏山で採れた樟が用いられているという。2008年(平成20年)のNHK大河ドラマ「篤姫」では、この正門を薩摩藩江戸屋敷に見立ててロケが行われたそうである。
仙巌園/正門
錫門
御殿の南側に残る朱塗りの門が錫門だ。屋根が錫の板で葺かれているという。江戸時代の始めに薩摩藩内で錫鉱山が発見され、鹿児島の特産品となったらしい。江戸時代にはこの錫門が正門として使われており、当時は当主と世継しか通れなかったそうである。
仙巌園/錫門
獅子乗大石灯籠
御殿前の庭園の隅に堂々とした姿で「獅子乗大石灯籠」が建っている。島津忠義が1884年(明治17年)に造らせたものだそうで、上に乗る飛獅子は江戸時代の別邸、花倉御仮屋にあったものという。写真では大きさが実感しにくいが、笠石は畳八畳分ほどの大きさがあるそうだ。磯浜の海岸にあったものというから少し驚く。
仙巌園/獅子乗大石灯籠
屋久種子五葉
御殿前の庭園の中央部辺り、ひときわ大きな存在感を放つ松の木は屋久島と種子島に自生する「ヤクタネゴヨウ(屋久種子五葉)」という五葉松だそうだ。樹高約30m、樹齢約350年、日本一の大きさと思われるとのことだ。堂々とした姿だが、齢を重ねてすでに幹の内部は空洞になり、幹は大きく傾いており、支柱やワイヤーロープに支えられて立つ姿が少し痛々しくもある。
仙巌園/屋久種子五葉
猫神
御殿の西側、園路脇にひっそりと猫神を祀る祠がある。かつて朝鮮出兵の際に“従軍”した猫を祀っているそうだ。島津家第十七代当主義弘は陣中で猫の瞳孔の開き具合から時刻を推測したそうで、「時の神様」といわれていると解説には記されている。由来はよくわからないが、百日咳にも御利益があるそうだ。何しろ猫を祀る祠ということで、猫好きの人々が参拝する姿もあるようだ。
仙巌園/猫神
濾過池
御殿の裏手の山裾には濾過池の遺構が残されている。1907年(明治40年)に造られたもので、園内の湧き水をここで濾過し、御殿などに配水していたそうだ。「再現することが容易でない」とのことで、「仙巌園内濾過池」として国の登録有形文化財になっている。
仙巌園/濾過池
曲水の庭
保津川の東側には「曲水の庭」が設けられている。その名が示すように「曲水の宴」を催すために築庭されたものだ。

「曲水の宴」とは水の流れを設けた庭園などで、流れの脇に参宴者が座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を流れ過ぎる前に詩歌を詠み、盃の酒を飲むという優雅な行事である。そもそもは古代中国で上巳(旧暦三月三日の節句、現在の「桃の節句」の起源と言われる)に行われていた禊ぎの神事が起源らしいが、それが日本にも伝わり、特に奈良時代から平安時代にかけて宮中や貴族の屋敷などで盛んに行われた。現在も福岡の太宰府天満宮や京都の上賀茂神社など、神事として「曲水の宴」を執り行う神社がある。

仙巌園の「曲水の庭」は島津家第二十一代当主、薩摩藩第四代藩主島津吉貴によって造られたものらしい。実は、この「曲水の庭」は長く土砂や火山灰に埋もれていたのだという。1959年(昭和34年)になって発掘され、その後の調査で「曲水の庭」であることがわかったらしい。土に埋まっていたことが奏功したのか、築庭当時の姿がほぼそのまま良好な状態で残っており、江戸時代の姿をとどめる「曲水の庭」としては日本で唯一、その規模は日本一だろうという。

仙巌園の「曲水の庭」でも「曲水の宴」が毎年四月に執り行われるようだ。日本各地で行われる「曲水の宴」は平安時代の様子を再現して、参宴者の衣装も当時のものが再現されているのが一般的だが、仙巌園の「曲水の宴」は島津家の行事として行われるため、参宴者の衣装も江戸時代の武家の礼装なのだという。その風雅な様子を見に、毎回多くの観光客が訪れて賑わうそうだ。
仙巌園/曲水の庭
仙巌園/曲水の庭
仙巌園/曲水の庭
仙巌園/曲水の庭
江南竹林
「曲水の庭」の裏手の山裾に「江南竹林」と呼ばれる竹林がある。1736年(元文元年)、島津家第二十一代当主、薩摩藩第四代藩主島津吉貴が中国の孟宗竹を琉球王国経由で取り寄せ、仙巌園に植えたという。今では広く日本全国に分布する孟宗竹だが、この仙巌園から日本全国に広まっていったらしい。孟宗竹が日本に持ち込まれた起源については他説もあるようだが、藩の物頭であった野村勘兵衛良昌が島津吉貴に琉球在番を命じられ、そこで清から孟宗竹を輸入、薩摩に戻って仙巌園に献上したというのが定説のようだ。
仙巌園/江南竹林
水力発電用ダム跡
「曲水の庭」の南東側の園路脇に「水力発電用ダム跡」がある。1892年(明治25年)、この場所にダムを築いて水力発電を行い、園内の照明などに用いていたという。水力発電機を発明したのはイギリスのウィリアム・アームストロングで、彼が自宅の照明を点灯させるために1878年に設置した発電機が世界で最初の水力発電だそうである。日本では宮城紡績の三居沢発電所が1888年(明治21年)に運用を開始したものが記録に残る中で最初のものとされ、仙巌園の水力発電も日本に於ける水力発電の草創期のもののひとつらしい。
仙巌園/水力発電用ダム跡
尚古集成館
尚古集成館
島津家第二十八代当主、第十一代薩摩藩藩主島津齊彬は、藩主となる以前から海外の情勢に明るく、西洋諸国の植民地政策に危機感を抱いていた。特にアヘン戦争で清がイギリスに敗れたという事実は齊彬に衝撃を与え、軍備の近代化、近代工業の育成を図って西洋諸国に対抗しなくてはならないとの考えに至る。1851年(嘉永4年)、43歳のときに薩摩藩主となった後、齊彬は磯地区の仙巌園隣接地に反射炉を造って鉄製大砲を製造、さらに紡績工場やガラス工場といった工場群を造って殖産興業に努める。それらの工場群が「集成館」である。齊彬は1858年(安政5年)に没し、集成館も1863年(文久3年)の薩英戦争で焼失したが、齊彬の弟である久光や島津家第二十九代当主、第十二代薩摩藩藩主となった忠義(齊彬の甥、久光の実子)によって集成館は再整備され、事業は引き継がれてゆく。
尚古集成館
尚古集成館
1865年(慶応元年)、イギリス人商人グラバーの手引きによって19名の若者がイギリスに渡る。彼らの多くは当地で海軍測量術や陸軍学術、医学などを学んで帰国、日本の近代化に大きな貢献を果たすことになる。この留学生派遣を提案した中心人物の一人が、若き日の五代友厚である。五代はイギリスからヨーロッパ各地を視察、紡績機械の買い付けなどを行ったという。この時に購入した紡績機械によって磯地区に本格的な洋式機械紡績工場が建設され、1867年(慶応3年)、操業を開始している。

明治維新後、集成館はいったん官有となるが、1889年(明治22年)には再び島津家所有となり、明治後期には島津鉄工所として機械製造などを行っていたようだ。1915年(大正4年)、集成館は閉鎖され、1923年(大正12年)、残っていた工場の建物を博物館に改築、「尚古集成館」が誕生する。1959年(昭和34年)には「旧集成館 附寺山炭窯 関吉疎水溝」として国の史跡に指定され、1962年(昭和37年)には「旧集成館機械工場」として国の重要文化財の指定を受けている。1990年(平成2年)には別館が完成、2005年(平成17年)には本館がリニューアルされて現在に至っている。
尚古集成館
尚古集成館
現在、尚古集成館本館には再現された反射炉の模型やかつての工場操業時を彷彿とさせる機械などを中心にさまざまな資料が展示されている。別館では各種の企画展示が行われるようだ。尚古集成館本館の建物は石造の平屋建て、幅77メートルという長大な建物である。中央部エントランスの上部に設けられたアーチが印象的だが、アーチを採用した石造洋風建築としては日本初であるらしい。本館の建物の外観を見学し、入館して展示された資料の数々を見学して、かつてこの地で興された近代工業の歴史に思いを巡らせるのは楽しいひとときだ。
仙巌園
仙巌園
仙巌園
仙巌園と尚古集成館は鹿児島観光の際には欠かすことのできない“名所”のひとつだ。仙巌園の庭園としての美しさやそこから見る桜島の景観を楽しむだけでなく、島津家と薩摩藩の歩んだ歴史にも触れておきたい。そして反射炉跡や尚古集成館を見学し、ここに築かれた近代工場群と、薩摩が輩出した人々が日本の近代化に果たした功績の大きさへの理解も深めておきたい。日本の近代史、特に幕末から明治維新にかけての歴史に興味のある人なら、絶対に訪ねておかなくてはならない場所のひとつだろう。仙巌園を見なくては鹿児島は語れない。

追記 2015年(平成27年)7月、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録が決定した。「明治日本の産業革命遺産」は鹿児島、長崎、萩、韮山、釜石などに点在する製鉄・製鋼、造船、石炭産業の遺産群から構成され、鹿児島では「旧集成館」、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」が、その構成資産となっている。「旧集成館」には反射炉跡、旧集成館機械工場(すなわち尚古集成館本館)、旧鹿児島紡績所技師館などが含まれている。
参考情報
仙巌園は入場料が必要だ。尚古集成館は無料区域に建っているが、入館には仙巌園の入場券が必要だ。すなわち所定の入場料で仙巌園の入園と尚古集成館の入館が可能ということだ。御殿ガイドツアーをセットにした共通券も販売されているので、御殿内部も見学したい人はこれを購入しておくといい。詳細は公式サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
仙巌園は鹿児島中央駅から数キロの距離がある。周遊バス(市営の「カゴシマシティビュー」、民営の「まち巡りバス」が運行している)を利用して訪れるのが便利だ。周遊バスは鹿児島中央駅を起点に市内の観光名所を巡りながら仙巌園との間を往復しているので、それぞれの観光地からのアクセスも容易だ。

仙巌園には普通車500台分ほどの駐車場が用意されており、車での来園も可能だ。鹿児島市街中心部から車で訪れる場合は国道10号(磯街道)を北上、霧島市方面から訪れる場合は錦江湾沿いに国道10号を南下すればいい。

飲食
仙巌園内には二つの食事処があり、窓外に桜島を眺めながら薩摩の郷土料理などが楽しめる。他にセルフ形式のラーメン店もあるから、気軽に済ませたいときも便利だ。

周辺
仙巌園入口から国道10号を300メートルほど西へ(鹿児島市中心部方面へ)辿ると、旧鹿児島紡績所技師館(異人館)が建っている。ここも併せて訪ねておきたい。

仙巌園のすぐ南側の海岸は磯海水浴場だ。夏には海水浴客で賑わっているが、他の季節には静かな浜辺だ。浜辺の散策を楽しむのも悪くない。

海岸を2kmほど南へ辿れば石橋記念公園だ。少し距離があるが、桜島を眺めながら歩いてみるのも一興だろう。

周遊バスを利用すれば石橋記念公園や鹿児島市街地中心部へもアクセスしやすい。鶴丸城趾や城山、西郷隆盛像、照国神社天文館、「いおワールドかごしま水族館」など、市街地に点在する観光名所を巡るのも周遊バスが便利だ。水族館前のバス停で周遊バスを降りれば鹿児島港桜島フェリーターミナルが近い。桜島フェリーを利用すれば桜島にも気軽に足を延ばすことができる。
庭園散歩
鹿児島散歩