島津家第十八代当主の家久が鶴ヶ城を築いて居城としてから数十年、1658年(万治元年)に第十九代当主であり、第二代薩摩藩主である島津光久が家老鎌田出雲守の旧宅であった大磯下津浜門屋敷に御仮屋を築いた。中国江西省の景勝地、龍虎山仙巌に景観が似ていることから「仙巌園」と名付けられたという。その後、仙巌園は代々の薩摩藩主に受け継がれ、島津家別邸として使われてきた。
幕末以降、仙巌園は賓客をもてなる場としても使われ、幕末にはオランダ海軍将校やイギリス公使パークス、あるいは勝海舟が、明治期以降には日本の皇族を始め、1891年(明治24年)にロシア皇太子ニコライ2世が、1922年(大正11年)にはイギリス皇太子エドワード8世が仙巌園を訪れている。そしてまた、隣接する(現在の)尚古集成館一帯は幕末から明治期にかけて島津齊彬らによって推し進められた近代化の礎となる工場群が築かれたところとしても知られる。
明治期には島津忠義公爵が住まいとして使い、その後住人不在の時期も経て、戦後1949年(昭和24年)からは鹿児島市の管理下にあったが、1957年(昭和32年)に島津家に返還され、鹿児島を代表する名所のひとつとして人気を集め、現在に至っている。仙巌園は「仙巌園 附 花倉御仮屋庭園(せんがんえん つけたり けくらおかりやていえん)」として1958年(昭和33年)に国の名勝の指定を受けている。
幕末以降、仙巌園は賓客をもてなる場としても使われ、幕末にはオランダ海軍将校やイギリス公使パークス、あるいは勝海舟が、明治期以降には日本の皇族を始め、1891年(明治24年)にロシア皇太子ニコライ2世が、1922年(大正11年)にはイギリス皇太子エドワード8世が仙巌園を訪れている。そしてまた、隣接する(現在の)尚古集成館一帯は幕末から明治期にかけて島津齊彬らによって推し進められた近代化の礎となる工場群が築かれたところとしても知られる。
明治期には島津忠義公爵が住まいとして使い、その後住人不在の時期も経て、戦後1949年(昭和24年)からは鹿児島市の管理下にあったが、1957年(昭和32年)に島津家に返還され、鹿児島を代表する名所のひとつとして人気を集め、現在に至っている。仙巌園は「仙巌園 附 花倉御仮屋庭園(せんがんえん つけたり けくらおかりやていえん)」として1958年(昭和33年)に国の名勝の指定を受けている。