この地域は江戸時代には鶴丸城の城下町だったところで、現在の「天文館通り」周辺には武家屋敷が並び、東側の「いづろ(石灯籠)通り」を中心とした金生町、呉服町、中町、大黒町一帯には町人の町が広がっていた。その武家町の一角に、1773年(安永2年)、薩摩藩第八代藩主の島津重豪が天体観測のための施設「明時館」を開設した。「明時館」では天体観測の成果を元に「薩摩暦」という独自の暦を制作していたという。「明時館」は「天文館」とも呼ばれ、それが現在の繁華街の通称としての「天文館」の由来である。「天文館通り」という名は大正期になって名付けられたものらしいが、「天文館」はいつしかこの地域を総称する名として定着していったということなのだろう。
明治維新後も「いづろ通り」沿いは商人の町としての賑わいを維持し、さらに発展していったということだが、武家町は屋敷の持ち主が移住して空き地も多く、寂しいところだったらしい。その屋敷跡に商業施設が建ち始めるのは明治中期以降のことで、明治末期になると映画館や劇場が開業して賑わうようになった。大正期から昭和初期にかけて路面電車が開業すると映画館や劇場への客も増え、それを目当てに周辺には飲食店が建ち並んだ。大正初期には山形屋呉服店が鉄骨鉄筋コンクリート造、モダンルネッサンス様式の新社屋を完成させ、この建物を見物に訪れる客でますますの賑わいを見せるようになったという。
1945年(昭和20年)、鹿児島もアメリカ軍による幾度かの空襲を受ける。「鹿児島大空襲」である。本土最南端という地理上の理由に加え、知覧などの特攻基地があったことから鹿児島への空襲は激しかったようだ。死者3300人余、負傷者4600人余という被害を受けた空襲だったが、これによって「天文館」の繁華街も壊滅的な被害を受け、一面は焼け野原になってしまった。しかし同年9月には山形屋が営業を再開、その後急速に復興を成し遂げ、昭和30年代には再び繁華街の賑わいを取り戻している。