幕末、島津家第二十八代当主、第十一代薩摩藩藩主島津齊彬は、軍備と工業の近代化を掲げ、城下北部の海岸、磯地区に「集成館」と呼ばれる工場群を建設する。1865年(慶応元年)、島津家第二十九代当主、第十二代薩摩藩藩主島津忠義は新納久修や五代友厚らを15名の留学生と共に英国へ派遣する。英国人グラバーの手引きによって、幕府による海外渡航の禁を破っての出国だった。五代は英国をはじめ欧州各地を視察、紡績機械の購入などに奔走した。翌1866年(慶応2年)、新納、五代らが帰国、その年の内にイー・ホームら4名の英国人技師が到着し紡績工場の建設が始まり、その翌年初頭にはジョン・テットロウらが紡績機械と共に薩摩に到着、5月には日本で最初の近代的紡績工場が誕生、操業を開始した。
工場の横手には紡績工場の建設と操業の指導のために招かれた英国人技師たちの宿舎が建てられた。それが現在の「旧鹿児島紡績所技師館」、通称「異人館」として知られる建物だ。薩摩藩は英国人技師たちを厚遇したという。薩英戦争(1863年)からまだ日が浅く、英国人技師たちには工場内外で護衛が付けられていたそうだ。しかし時代は幕末、日本の政情は混乱していた。それを不安視した英国人技師たちは3年の契約期間の終了を待たず、1868年(明治元年)に帰国してしまったという。
工場の横手には紡績工場の建設と操業の指導のために招かれた英国人技師たちの宿舎が建てられた。それが現在の「旧鹿児島紡績所技師館」、通称「異人館」として知られる建物だ。薩摩藩は英国人技師たちを厚遇したという。薩英戦争(1863年)からまだ日が浅く、英国人技師たちには工場内外で護衛が付けられていたそうだ。しかし時代は幕末、日本の政情は混乱していた。それを不安視した英国人技師たちは3年の契約期間の終了を待たず、1868年(明治元年)に帰国してしまったという。